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ござ九
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安土桃山・江戸時代編 上の橋

盛岡商業の始まり


盛岡での商工業の開始は築城と同時に大工町と京町(現本町一丁目)に始まった。
当初居住を許されたのは三戸から移転した大工と新保越前商人、京都公家商人の駐在員であった。
彼らは回船問屋で、新保越前商人は主に下北の木材を上方へ廻送し、京都商人は京都から西陣織や日用雑貨を運び、帰り舟として、紫根、黄蓮、漆を雫石経由で秋田湊から運んだ。
しだいに江戸、仙台の町が発展するようになると、江戸、仙台、石巻商人が活躍するようになった。
□1676年(延宝2年)藩は他領大手商人から地元商人を優先的に請け負わせるようになり、□1701年(元禄13年)他領持ち出し禁制令を出し、藩内の生産物は他領に持ち出すことができなくなった。
これにより京商人や江戸、仙台の商人が盛岡より撤退し、近江商人や地元商人が活躍するようになる。



江戸時代

盛岡城下の商人
 

<藩制初期の商人−上方商人のスカウト>

盛岡の町を作ったのは近江商人との説がありますが、近江商人が活躍し出すのは1701年元禄13年以降で、築城以来100年、盛岡の町は完成しています。

元禄以前の商人は、越前新保商人、京都商人、仙台商人、江戸商人などであり、これらは店舗商人ではなく、回船(北前船)を持ち、盛岡に駐在員を置き、取引相手は藩のみで、藩の運上金制度により請け負う形が取られていました。
取引額は、藩を相手にするため、はんぱな金額ではありませんでした。
このために地元商人や近江商人は入れる余地はなく、こうした中央大手商人の下請け運送仲買をする程度でした。

盛岡城築城費と城下町建設費は、こうした中央大手商人と当時発見された白根金山の金により賄われたものです。

この大手商人の駐在員は京町(本町1丁目)から油町にかけて居住を許されていました。
これが京町の名の由来です。

<盛岡の町づくり−3町から28丁へ>

星川正甫「食貨志」によると、最初に建町されたのは、三戸町、京町、六日町の3町だったとされています。
1町に30軒、ずっとして90軒の町並みでした。
盛岡城の築城とほぼ同じ時期と考えられます。
この三戸町とは後の日影門小路で、伝承では築城と同時に三戸城下の商人を移して建町としています。
三戸町、京町、六日町の3町は核町の造成で、この3町を核として周辺に新町を割り出していました。
この3町は後々まで重要な町とされました。

1633年(寛永10年)
利直の長男 重直が盛岡に入った当時は、八日町、油町、磐手町、上大工町、下大工町、屋根葺町などが増え23町に増加した。
最初の盛岡城下町図「寛永図」では23町で小間居まで描かれ、商人や職人の名前まで記され、現在のゼンリンの地図と同じである。
盛岡23町は当初は3町であった。
1651年(慶安4年)
盛岡23町が公儀により決定。
磐手町を材木町、屋根葺町を葺手町と改名。
1812年(文化9年)
盛岡城下町は28丁に増え、一丁目、二丁目が設けられ、当時の小間割は8千軒だった。
この28丁は幕末まで変わらず、6地区に分けて「六検断」が所管した。

中津川上ノ橋かいわい古地図

<寛永図>

1633年(寛永10年)
盛岡最初の地図、大手門、京町、銅屋町、大工町、油町付近。
京町には、四郎兵衛、庄三郎、庄左エ門、宗右エ門の京商人。
久三郎、傳三郎、治郎兵衛などの新保越前商人。
銅屋町には京都の銅の飾り職人3名が記載されている。

<越前新保商人団−久末屋久末久五郎>

福井県新保浦(元三国町)の商人で、加賀藩前田利家が青森ヒバ材を津軽下北に求めたことにより、南部信直は三戸時代から取引がありました。
利直の時代には御免船の特権を与えられ、毎年五、六杯の北前船を仕立て上方の商品を田名部、野辺地に回送、帰り荷として下北のヒバ材と尾去沢鉱山の銅を運びました。
回船問屋久末屋は油町に住居し、駐在員、久末久三郎が下記の地図に見えています。

1614・1615年(慶長14年・元和元年)
大坂冬・夏の陣に際し久末久五郎は利直の武具などを輸送し、翌年南部領が飢饉になると福井藩より米を千俵届けた。
この功績で利直により特権商人の地位を得た。
1702年(元禄15年)
久末屋は1年間で30艘の舟が遭難し、死者337人も出し、前の年も遭難事故で13艘の舟を失った。
この度重なる遭難事故により衰退し、盛岡から撤退した。


今も作られている南部紫根染(盛岡手づくり村) 今も作られている南部紫根染(盛岡手づくり村)
今も作られている南部紫根染(盛岡手づくり村)

<京都公家商人−中納言五條為経−京町の由来>

豊臣秀吉政権下、南部信直は京都伏見、南部屋敷に滞在中に前田利家から五條家の紹介を受けました。
五條家屋敷は五條大橋をはさんで南部屋敷とは隣でした。
五條家は文章博士、大学頭の家柄で当時朝廷の食料調達と伏見に滞在中の諸藩の食料調達も兼ねた主計頭、主計助でした。
秀吉の朝鮮出兵が始まると信直も50人の兵とともに唐津南部屋敷に7年間滞在、この時も五條家が食料をまかないました。

1598年(慶長3年12月)
朝鮮出兵が終わると信直は京都伏見に戻ったが体調が悪くなり三戸に帰国することが許された。
帰国の際信直は五條家に取引を依頼し駐在員を要請、主計助、四男四郎兵衛と公家3名が随行した。
この時京都からの随行者は7名で、4名が公家主計助、3名は銅の飾り職人であった。
後に公家主計助が住んだところが京町となり銅の飾り職人が居住したところが銅屋町となった。
1599年(慶長4年3月)
信直盛岡城に居住するが同年10月5日福岡城で死亡。
四郎兵衛など4名の公家は、その後利直、重直、重信に仕えた。
回船では京都より西陣織や日用雑貨を運び、帰り船では秋田土崎湊より紫根、黄蓮、漆を運び、野辺地からは上方廻米を行った。
また城内にあっては殿様の相談役と下臣に礼儀作法の指導を行った。
京町の隣は銅屋町その続きが上の橋、上の橋には青銅の擬宝珠が付いている。
この話は擬宝珠と大いに関係があると思われます。
1676年(延宝4年)
これまで上方から盛岡への商品の運搬は秋田土崎湊に陸揚げされ、雫石経由(秋田街道)で運ばれていたが、この年秋田湊の他領出し荷物の新税が課せられたため、盛岡商人一同の願いによって、野辺地湊に陸揚げし、盛岡まで運ぶように改められた。
1701年(元禄13年)
元禄8年の大飢饉により景気が低迷、この年、他領持ち出し禁制令が出され、回船問屋を廃業。
3代目四郎兵衛、許しにより盛岡より京都へ撤退。
五條家本家も代が替わり、相撲の司家となっていた。


北上川の木材の集積地 磐手町・後の材木町
北上川の木材の集積地 磐手町・後の材木町
石垣に昔の面影が残る

<地元商人>

地元盛岡商人としては鷹羽儀兵衛、水原徳右衛門がいました。
陸送の下請と厩宿の営業をしていました。
また宮儀兵衛など、紫根、黄蓮、漆の仲買商が多くいました。

<仙台商人−泉屋竹田甚右衛門>

伊達藩、仙台国分町の商人で江戸回船を持ち、盛岡より材木、米などを石巻、江戸まで運んでいました。また南部家の本陣も務めていました。
1701年(元禄13年)
藩により他領持ち出し禁止令が出されると盛岡より撤退した。

<仙台商人−石巻二郎兵衛>

伊達藩では石巻の山林の伐採を禁止したため、その仕入地を盛岡に求めました。
このため石巻二郎兵衛は雫石、つなぎ方面の木材、雑木、米などを石巻に運びました。

<江戸商人−慶徳孫兵衛>

重直の時代、大量の木材を購入して江戸に廻送しています。
1701年(元禄13年)
藩により他領持ち出し禁止令が出されると盛岡より撤退した。

江戸時代初期百年、盛岡は生産都市でした。これ以降盛岡は消費都市となりました。
利直の優れた才能によるものでしょう。

小繰船 小繰船
北上川 新山舟橋←→北上・小繰船
米約100俵を積むことができた

<回船問屋から店舗商人(近江商人)へ>

1674年(延宝2年)
藩では他国の業者が運上事業に進出するのを押さえるため、原則として領内の業者に限定することにしたが、実際には資金の問題などもあり、領内の業者に内証で他国業者を加えてもよいことにした。
ただし名義は領内の業者になった。
1676年(延宝3年)
江戸回米は藩直営となった。それまでは68、32の定で回船商人に請け負わせ、32%の運賃を払っていたのが、江戸船や仙台船などを雇船し、安い運賃で江戸に運ぶ道が開けた。
また他領の大商人の参入を許していた運上事業は原則として地元商人に限定した。
1695年(元禄8年)
大飢饉(南部4大飢饉の最初)、損耗高十万俵、窮民救助34,000人、餓死者40,000人。
これまではバブル経済で好景気で沸いていたが一挙に景気が低迷し、藩財政が厳しくなる。
1701年(元禄13年)
藩、他領持ち出し禁制令を出す。
他領商人は事実上盛岡より撤退することになった。
これにより近江商人が台頭することになる。

盛岡商人の系統

<近江商人の台頭>

すでに藩政初期から近江商人は盛岡に定住していたがまだ小商人であり正月元旦に全員集ってお城に新年の挨拶をする程度でした。
しかし1701年(元禄13年)以降他領大手商人が盛岡より撤退すると次第に拡大の道が広がります。
近江商人は大きく分けて2系統があります。
1つは琵琶湖湖西商人で村井、小野を称する商人団であり、もう1つは湖東の日野、八幡を中心とした旧蒲生氏領の商人です。
盛岡には2系統とも入っていますが主流を占めたのは大溝商人団で、これは京都を中心に活躍したため、盛岡と京都は深く結び付くことになりました。

江戸時代の商家 村井宅
江戸時代の商家 村井宅

<宝暦年間の商人>

1753年(宝暦3年)
南部藩が日光廟の普請手伝いを命じられ、七万両の臨時支出があった。この時初めて城下の商人全員に御用金を課した面附が「飢饉考」(横川良助)にみえている。
井筒屋清助の二百六十五両を最高にして、最低三両まで盛岡商人162名の名がある。

日光廟普請御用金表
265両 紺屋町   井筒屋清助 小野
250両 呉服町   井筒屋善助 小野
160両 石町   井筒屋兵右衛門 小野
150両 本町   大塚屋伊兵衛  
149両 石町   井筒屋権右衛門 小野
145両 呉服町   近江屋治郎兵衛 平野
130両 三戸町   加賀屋甚兵衛  
119両 本町   太五兵衛  
119両 呉服町   多賀屋甚助 小野
119両 呉服町   美濃屋宗八 金子
116両 呉服町   芳野屋宇兵衛 小野
103両 呉服町   近江屋市左衛門 村井
103両 呉服町   鹿島屋九郎治  
99両 本町   近江屋弥助 村井
以下省略

1755年(宝暦5年) 大飢饉(南部4大飢饉の2
回目)、米作損耗高197,700石、窮民救助30,000人、餓死者60,000人。
同年11月
御城下商人に対し1万5千両の御用金を課す。近江商人、近江へ撤退す。藩財政難。
1768年(明和5年)
他領持ち出し禁制令が出される。領内生産品全てに対し持ち出し禁止となる。
近江商人、京都より古着、日用品を持ち込み盛岡で販売し始める。

中央公民館「糸治」 新石町「木津屋」
中央公民館「糸治」   新石町「木津屋」

<「屋号」「のれん」「略称」>

屋号はいつの時代から使用されたかは不明ですが1700年頃に一挙に増加しています。
屋号は勝手に使用してよかった訳ではなく、町方を通じて登録し、町奉行から「屋号御免」を受けなければなりませんでした。
屋号御免ともなれば領内で自由に商売ができ、商品を他領に出す時は「十分一税」を納めることになっていました。
屋号は多くの場合、出身地の国名や郡名、村名、町名などを取り、分家した場合は本家の屋号を使用しました。
屋号を染め抜いて店頭に掛けたのが「のれん」で、商人にとっては「旗印」であり、分家することを「のれん分け」と言いました。
通常、屋号と店主の名をつけた略称が用いられ愛称になっていきました。

井筒屋弥兵衛 紙町 「井弥」
鍵屋茂兵衛 紺屋町 「鍵茂」
木津屋藤兵衛 新石町 「木津藤」
大和屋茂右衛門 本町 「大茂」
大豆屋福助 四ツ家 「大福」
叶屋庄兵衛 十三日町 「加乃庄」
向井屋半兵衛 鍛治町 「向半」
金升屋伊兵衛 紙町 「金伊」
両替屋惣兵衛 肴町 「両惣」
高田屋与兵衛 肴町 「高与」
高嶋屋七六 十三日町 「高七」
永田屋卯太郎 肴町 「永卯」
ござ屋九兵衛 紺屋町 「ござ九」
ござ屋藤兵衛 本町 「ござ藤」
久保田屋庄兵衛 肴町 「久保庄」
浜田屋藤右衛門 仙北町 「浜藤」
徳田屋清右衛門 仙北町 「徳清」
江島屋元十郎 紺屋町 「江元」
糸屋治兵衛 新石町 「糸治」
見前屋武衛門 肴町 「見武」

紺屋町「ござ九」裏
紺屋町「ござ九」裏


山の上三太夫(柵太夫)
 

<悲劇の大関−山の上三太夫(柵太夫)>

今から約400年前、1670年代(延宝年間)に南部藩29代重信公の時代に、藩のお抱えの力士となった山の上柵太夫は大関まで出世しました。
当時は大関が最高位で、その時代、日本一強いといわれていました。
名古屋、尾張公のお抱えの力士、富士の山と勝負することになり、見事相撲に勝利しました。
重信公は大いに喜び、富士の山、つまり富士山より強いことから、山の上柵太夫と名乗らせたといわれています。

1676年(延宝4年8月)
ある夏の日、重信の長男行信が駕籠で帰宅の際、柵太夫もお供を申し付けられ、幼少の行信を涼ませるという善意で6人で担ぐ駕籠を1人で軽々と担ぎ、橋の欄干の外に差し出した。
このことが重信の怒りを買い小鷹の刑場で処刑された。
処刑の際、柵太夫は「今後南部からは大関は出さない」と呪いの言葉を残し刑台に上った。
槍で胸を突かれるとき、柵太夫は満身の力を込め全身を緊張させたため、槍は鉄石を突くに等しく、少しも傷を負わせることができなかった。
しかし3回目に体を和らげると深く胸に突き刺さり、刑場の露と消えたと伝えられている。

日本国大相撲関取大男・名人番付

<南部の相撲>

南部藩は世に知られた相撲どころでした。
天下の諸侯に互して盛岡藩の歴代藩主は相撲に関心が深く、特に行信公(第4代)・利敬公(第10代)の相撲好きについては良く語り伝えられています。
藩では八幡坂の上の南角に相撲場・角屋敷を作り、力士を召し抱えて養成しています。
相撲は単に藩主ばかりではなく、重臣の間にも愛好者が多くおりました。

1677年(延宝5年)12月御家中抱の相撲。召抱え人。
八戸弥六郎、中野吉兵衛、北九兵衛、楢山五左衛門、八戸頼母、毛馬内弥二郎、野田左近、葛巻覚右衛門、内堀織部、この外にも93名ありと、各家老職の人々も力士を抱えることが許された時代であった。
召し抱えられた力士は領内出身者だけに限らず、江戸召し抱え、また広く諸国出身者もスカウトし南部力士としていた。

南部の力士錦絵

<京都興行相撲>
1732年(享保17年)
相撲奉行桑原竜太・行司長瀬善左衛門等は南部力士16名を引率して京都に行き、九州相撲と対抗相撲を行って勝利をおさめた記録が残っている。
この時の長瀬行司が指揮して4本柱の屋根付土俵で屋根の東西に鯱を飾った方形の土俵を築き、見物人を驚かせたと伝えられている。
諸侯召し抱え力士との対抗から江戸相撲はじめ興行相撲・奉納相撲、さらに勧進相撲の土俵に頻繁にあがっていた。
盛岡略年表

安土・桃山時代
1578
天正6年
大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる
1579
天正7年
安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開
1582
天正10年
南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする
1583
天正11年
安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合
1585
天正13年
大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗
1586
天正14年
南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ
1588
天正16年
三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡
1589
天正17年
湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる
1590
天正18年
南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏
1591
天正19年
九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める
1592
文禄元年
南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる
1594
文禄3年
南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す
1597
慶長2年
盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる
1598
慶長3年
南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡
1599
慶長4年
南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる
1600
慶長5年
家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣
1601
慶長6年
利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡)
1602
慶長7年
鹿角白根金山が発見される


江戸時代
1614
慶長19年
利直、大阪冬の陣に出陣
1615
元和元年
大阪夏の陣おこる
1625
寛永元年
三戸旧城下の町民を盛岡に移す
1632
寛永9年
南部利直が江戸桜田邸で逝去す
1633
寛永10年
南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める

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