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関連施設「遺跡の学び館」 |
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<自然採集の生活>
竪穴式住居に住んで縄文土器を作り、石器や骨角器などの利器を用いて野山に棲んでいるけだものや鳥類などを追い、また木の実や川の魚をとって食料とする自然採集の生活を営んでいました。
盛岡市内の縄文時代の遺跡数=約120箇所
主な遺跡
| 繋地区 |
繋遺跡 萪内遺跡 |
| 太田地区 |
猪去館遺跡 オミ坂遺跡 |
| 青山・厨川地区 |
大館町遺跡 大新遺跡 |
| 上田・米内地区 |
畑井野遺跡 小鳥沢遺跡 |
| 浅岸地区 |
一本松遺跡 大豆門遺跡 大葛遺跡 |
| 簗川・東中野地区 |
川目遺跡 沢田遺跡 小山遺跡 |
太田の蝦夷森古墳群
盛岡市唯一の古墳群で、上太田森合一帯に所在します。
いずれも円墳で、川原石積みの塚です。
この古墳群からは蕨手刀・直刀・勾玉・玉類・和銅開珎銭などが出土しています。
大体形式からみて奈良朝末期ごろの古墳群と考えられています。
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関連施設「志波城古代公園」 |
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<大和朝廷の支配下に>
古代の東北は「陸奥(むつ)」と呼ばれ、日本人とは異なった野蛮な人種 エゾ(東夷)が住んでいたと思われていました。
延暦8年(789年)、征討大使 紀古佐美の大がかりなエゾ征討が行われました。
しかし強い抵抗に敗れたのち、征夷大将軍 坂上田村麻呂によって胆沢城(水沢市)そして志波城(盛岡市)が築かれ、陸奥は大和朝廷の支配になりました。
ところが志波城は田村麻呂の後任の文室綿麻呂のとき川の氾濫で放棄され、新たに徳丹城(矢巾町)が築かれました。
これまで所在不明だった志波城も昭和52年の発掘調査で盛岡市太田の方八丁遺跡に間違いないことがわかり、朝廷支配は盛岡周辺まで及んだことがはっきりしました。
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関連施設「徳丹城」 |
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<国指定史跡 徳丹城跡>
徳丹城は、西暦812年(弘仁3年)の3月頃、時の征夷将軍文室綿麻呂によって造られた律令制最後の城柵です。
雫石川の水害で被害を受けた志波城(盛岡市太田)を解体し、遷し建てられたもので、造営工事には2,000人もの鎮兵が動員されました。 |
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関連施設「三ツ石神社」 |
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<三ツ石−岩手・不来方の名の由来伝説−>
東顕寺三ツ石記に、
昔この村に、いたずらな鬼がいて、しばしば出現しては里人に悪事をして困らせた。
そこで、里人達は三ツ石の霊神に懲らしめてくれるよう祈願したところ三ツ石の霊神が現れて、忽ち鬼を捕らえて縛ってしまった。
鬼は泣いて前悪を詫びたので、霊神は神社の霊石「三ツ石」に詫び手形を押させて鬼を赦して帰した。
それから鬼はこの里に現れ出ることがなくなり「不来方」(コズカタ)と名付けてその手形を「岩の手形」にし「岩手」と呼ぶようになり、これが地名となった
という。
また喜んだ里の人々が「サンサ、サンサー」と三ツ石の周囲を踊り廻ったのが「サンサ踊り」のはじまりだとしている。
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| 「盛岡四百年」より |
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<岩手郡の成立>
811年(弘仁2年)正月、陸奥国には和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波)の三郡が置かれました。
田村麻呂により志波城が造られた8年後のことです。
斯波郡以北は手前より幣伊(閉伊)・爾薩体・都母と呼ばれ岩手の名はありません。
岩手の地名が現れるのは安倍氏の時代で、「安倍氏は奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手)を支配し」と出てきます。
岩手の地名は安倍氏の初期の時代なのでしょう。 |
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<さんさ踊り>
毎年8月1日〜8月4日まで行われる当地を代表する夏まつりです。
地域ごとに踊り方が異なっており33種類の踊り方があるとされています。
昔は中心部より郡部の方が盛んでした。
一番古いさんさ踊りは黒川さんさ踊りです。
雫石さんさ踊りも古い方でしょう。 |
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厨川柵・嫗戸柵 |
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<強大な地方豪族の誕生>
エゾを制した大和朝廷はエゾの首長を「郡司」つまり「地方長官」に任命して統治に当たらせました。
いわゆる間接支配で、これがやがて強大な地方豪族を生む結果になりました。
奥六郡の郡司に任命された安倍氏もそれで、厨川柵をはじめ岩手県内に12の柵を持ち、金・織物・馬など豊富な産物に恵まれ支配力を強めていきました。
前九年の役で滅ぼされましたが、その発端となった阿久利川事件は金や馬など陸奥の資源をねらった源頼義の挑発と考えられています。
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<前九年の役> 1051年(永承6年)〜1062年(康平5年)
1051年(永承6年)、陸奥守源頼義の奥州多賀城赴任から安倍氏滅亡までに要した1062年(康平5年)までの戦いを前九年の役、または奥州十二年合戦といいいます。
1062年(康平5年)9月17日、出羽国仙北の俘囚、清原氏の参戦により、安倍氏の拠点であった厨川柵、嫗戸柵が陥落しました。
貞任は深手で捕らえられ、頼義の面前で一瞥して息を引き取りました。
経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首させられました。
首は塩漬けにされ京都に送られました。 |
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厨川柵擬定地 厨川次郎貞任
盛岡市大館町〜天昌寺までの一帯です。
現在は住宅地で面影はありません。
「前九年町」の町名が残っており、また、天昌寺裏に厨川柵の説明看板がありま す。
大館町の西側には諸葛川があり、この近辺には昔、貞任橋、宗任橋がありました。
厨川柵は奥州藤原氏の祖、藤原経清が捕らえられ処刑された場所です。 |
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嫗戸柵擬定地 北浦六郎重任
嫗戸柵は以前は盛岡市安倍館と考えられていましたが、この場所では「陸奥話記」の文面と合いません。
近年、滝沢村の発掘調査により、滝沢村大釜、東林寺付近が嫗戸柵跡として有力視されています。
ここであれば「厨川柵と嫗戸柵の二柵の間、七八町なり」の文面と一致します。 |

岩手県盛岡市天昌寺 |
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岩手県滝沢村東林寺 |
陸奥話記(むつわき)
前九年の役について記された資料では「陸奥話記」が代表格です。
作者は不明ですが平安時代後期、11世紀後期と推定されています。
漢文体で短い文章ですが力強い描写で格調高い文体です。
「将門記」とともに初期軍記物語の代表作です。
NHK大河ドラマ「炎立つ」(ほむらたつ) 原作 高橋克彦
1993年7月4日〜1994年3月13日までに放映されたNHK大河ドラマで、アテルイ、坂上田村麻呂〜前九年の役、後三年の役〜奥州藤原氏滅亡までを取り扱ったドラマ。
原作は当地直木賞作家、高橋克彦です。
その他奥州藤原氏の小説として、直木賞作家、元中尊寺住職 今東光「蒼き蝦夷の血」があります。
つなぎ温泉
「前九年の役」の厨川柵の合戦の折、源義家が当地に陣を張り、、この時温泉を発見し、傷ついた愛馬を石につなぎ、温泉に入浴したことが、つなぎ温泉の起こりとされています。
しかしこれも伝説で、はっきりしませんが、当時としては安倍一族の湯治場だったとした方が理解しやすいです。 |
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関連施設「平泉」 |
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<平泉文化>
安倍氏が滅ぶと制圧に協力した出羽の清原氏が支配者になり、やがて一族内紛の後三年の役が起きて安倍氏血縁の藤原氏が奥州を支配しました。
藤原氏は豊富な資源にものをいわせて、京の都に匹敵する平泉文化を築きました。
しかし、この藤原氏も源頼朝に滅ぼされ、奥州は鎌倉幕府の直轄になり、平泉攻め参戦で論功があった、葛西清重、千葉常胤、足利義兼、伊達朝宗、工藤行光、河村秀清など38名の鎌倉御家人に領地が与えられました。 |
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戸沢氏・滴石城 |
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| <保元の乱−平安時代> |
| □ |
1156年(保元元年)
平忠正、崇徳上皇方に味方し平清盛と戦う。
忠正は源為義と並ぶ上皇方の重鎮として活躍したが敗北。
忠正は捕らえられ、後日、長盛、忠綱、正綱、通正の4子が自首。
しかし平清盛は親子5人をあっさりと京都六条河原で処刑してしまった。
この4男通正の妻は吉野に逃れた。
この時の通正の妻は身ごもっており、吉野で生まれたのが平衡盛である。 |
| □ |
1184年(寿永3年)
平衡盛は大和国吉野より奥州に下向し、奥州藤原氏の庄園、滴石荘の荘司、樋山弾正良正の許しにより滴石に身を寄せた。
その後、良正は衡盛を滴石庄戸沢に居住させ娘を娶した。
良正には男の子がなく、衡盛がその跡を継ぎ、その地(戸沢、下田、隠明神、田口、長山、綱木(繋))を領有した。
この時戸沢と改名した。 |
| □ |
1187年(文治3年)
奥州藤原氏、鎮守府将軍、藤原秀衡死去。 |
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| <山形、新庄戸沢藩発祥の地−鎌倉時代> |
| □ |
1189年(文治5年)
奥州合戦、奥州藤原氏滅亡す。
頼朝の北陸道軍、国見峠を越えて、戸沢氏と敵対することなく滴石を通り陣ヶ岡に到着した。
戸沢衡盛は、滴石庄(戸沢、下田、隠明神、田口、綱木)を安堵され、秋田仙北郡4,600町を与えられた。 |
| □ |
1192年(建久3年)
戸沢衡盛、鎌倉幕府の御家人となり、従五位下飛騨守に叙任される。 |
| □ |
1204年(元久元年)
源実朝が暗殺され、北条時政執権となる。 |
| □ |
1206年(建永元年)
2代目兼盛、秋田仙北郡門屋小館に移住す。 |
| □ |
1220年(承久2年)
兼盛、門屋小館より門屋に移住す。 |
| □ |
1228年(安貞2年)
門屋城築城。
| ※ |
鎌倉時代中期以降になると北条得宗家に権力が集中するようになり、得宗家の家臣になるものが続出しました。
戸沢氏も北条氏の家臣となり滴石庄も北条得宗領となっていきました。
またこの時期は開墾が進み米の生産力が高まりました。 |
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| □ |
1333年(正慶2年)
鎌倉幕府滅亡す。
同年北畠顕家陸奥守となり、また南部師行を糖部郡代とし奥州に下向す。
戸沢氏盛、顕家に従う。
北条方の岩手郡厨川の工藤氏これに従わず。
師行の弟 南部信長、工藤氏を攻め落とし、地頭職を取り上げる。
南部氏・工藤氏の見張りとして福士氏を代官として不来方に置く。 |
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戸沢館 |
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田屋館 |
| <南北朝> |
| □ |
1334年(建武元年)
建武の中興
後醍醐天皇は北畠顕家を陸奥守に任じ、奥州多賀国府に下向させる。
南部師行を糖部郡代として八戸根城を築城。
また、子 顕成に津軽浪岡を所領として与える。 |
| □ |
1335年(建武2年)
足利尊氏、建武の中興の新政に反逆して、一族斯波高経の子、斯波家長を奥州管領として斯波高水寺に下向させた。 |
| □ |
1336年(延元元年)
尊氏、京都に戻り北朝の天皇を擁立。
後醍醐天皇吉野へ行幸し南朝を成立させる。 |
| □ |
1337年(延元2年)
後醍醐天皇、北畠顕家を鎮守府将軍に任じ二度奥州に下向させる。 |
| □ |
1338年(延元3年)
南朝の師、北畠親房は泉州石津の戦いで長男 顕家を失う。 |
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| <陸奥介鎮守府将軍北畠顕信、滴石城に駐留し滴石御所を置く> |
| □ |
1338年(延元3年)9月
北畠親房は長男 顕家を失ったあと、後任に次男 顕信を陸奥介鎮守府将軍に任命す。 |
| □ |
1339年(延元4年)9月
北畠親房、常陸の小田城に拠って「神皇正統記」を著す。 |
| □ |
1340年(興国元年)春
北畠顕信、吉野から奥州に出陣し、石巻の日和山城に将軍府を置く。 |
| □ |
1340年(興国元年)夏
滴石戸沢氏、南朝に味方して滴石城を築城す。 |
| □ |
1341年(興国2年)3月
顕信、八戸南部長政、滴石の戸沢、和賀、河村氏に対し北朝軍を対治指令し栗屋河合戦を発動す(現盛岡)。 |
| □ |
1343年(興国4年)春
顕信、将軍府を石巻から南出羽に移す。 |
| □ |
1345年(興国6年)9月
顕信、南出羽より岩手郡滴石に出陣。
また同年、将軍南部長政に命じて葛西、和賀、戸沢等とともに斯波郡を攻める。 |
| □ |
1346年(正平元年)春
顕信、岩手郡滴石大字綱木(つなぎ)の地に駐留し滴石御所を開く。 |
| □ |
1349年(正平4年)
北朝方、滴石城を総攻撃するが大敗。 |
| □ |
1350年(正平5年)3月
顕信、上田城(現盛岡市北山)合戦を指揮する。 |
| □ |
1351年(正平6年)11月
顕信将軍、滴石御所より出陣し府中奪回作戦。府中の占拠に成功。 |
| □ |
1352年(正平7年)7月
顕信、滴石御所より福島県宇津峰城に移る。 |
| □ |
1392年(明徳3年)
南北朝合体する。 |
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名子道 |
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元御所 |
<北畠三御所−滴石御所>
「津軽浪岡御所」「閉伊袰綿御所」「岩手滴石御所」を北畠三御所といいます。
南北朝時代、南朝の師、北畠親房の次男、陸奥介鎮守府将軍北畠顕信公は1346年(正平元年)春から1352年(正平7年)7月までの約7年間、当地岩手郡滴石大字綱木(つなぎ)の地に駐留し、南朝軍(八戸南部氏、滴石戸沢氏、和賀氏、河村氏)の指揮に当たり上田城合戦を起こしました。
このとき顕信の居住地を滴石御所と称し、これが現在の御所の地名の起こりとなっています。
現在、雫石町繋字元御所の地名もあります。
この元御所はほとんどがダムに沈んでしまいましたが、ここには「将軍屋敷」「君屋敷」「刑部屋敷」「寺屋敷」という地名がありました。 |
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| <戸沢政安、三戸南部晴政、石川高信に敗れる> |
| □ |
1394年(応永元年)
綱木藤倉神社創建 |
| □ |
1423年(応永30年)
戸沢氏宗家は横手小野寺氏の攻撃が激しくなってきたため滴石城から仙北郡門屋城に移った。
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| □ |
1424年(応永31年)
戸沢宗家、本城を門屋城から角館城に移す。 |
| □ |
1532年(天文元年)
これより以前に城の配置替えが行われており、天文元年頃は一族の戸沢十郎政安は戸沢館で、綱木舘市館城主手塚左衛門尉は滴石城主で、綱木舘市館城主は同一族の高橋出雲であった。 |
| □ |
1540年(天文9年)8月
三戸南部晴政は叔父 石川高信の献策により岩手郡を狙わせた。
川村氏(沼宮内、川口、渋民、玉山の各氏)と工藤氏(田頭、平館各氏)はこれに従ったが滴石戸沢政安はこれに応じなかった。
高信は福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸、玉山、工藤氏とともに大挙して滴石を攻めた。
高信は滴石城と戸沢館を火攻めにし町ごと焼き払った。
戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城に戦ったが敗れ、手塚氏は討死。長山氏は自らの手で長山城を焼き、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ちた。 |
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<戸沢神社>
戸沢五郎の創建と伝えられていますが、年代は不詳。
祭神に虚空蔵様、八幡様、昆沙門天を合祀しています。
弁財天は戸沢公の奥方を祀ったものといわれます。
南部実光と戦い落城のとき、稲籾童子を抱き沼の中というところに身を沈めたと伝えられ、それより弁財天として祀っているということです。
戸沢氏の居所、沼の平がなまり、沼田神社になったといわれています。
<藤倉神社>
繋字舘市内に所在。
戸沢氏の一族、高橋氏の創建。
1394年(応永元年)。
戸沢神社と同じく昆沙門天が祀られています。
藤倉神社の前には清水が湧き、樹齢1,000年以上と思われる桂の樹根があります。
藤倉神社の祭礼は、太刀をつけて山の神舞をするのが古例です。 |
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戸沢神社 |
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藤倉神社 |
<戸沢氏家臣団と家臣その後>
戸沢氏家臣団は手塚氏、長山氏、木村氏、田口氏、舘市(高橋)氏、用の沢氏、橋場氏が知られています。
それぞれ城館があったと思われますが一部を除いて不明です。
城主戸沢政安が仙北角館城に落ちたときは、一部の家臣は一緒に仙北に移ったようですが、残った家臣も多く、この残った家臣団が高水寺城斯波氏を受け入れ、斯波雫石氏の時代を築きます。 |
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<多賀神社>
雫石町御明神にある神社で近江明神とも呼ばれた旧村社。
承元(1207〜1210年)の頃、佐々木盛綱の家臣、木村太郎四郎が近江の国を去るとき、多賀明神(現滋賀県犬上郡多賀町)の神剣を持参、百姓左近の娘と縁組し勧請した、御明神の村名の源といいます。 |
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<大館城>
雫石町大字御明神字山津田の大館山に所在し、大規模な山城です。
南北朝時代戸沢氏の築城と考えられています。
常時城主が居住した城とするには無理があり、仙北門屋城との連絡や有事の際の詰めの城や逃城的な防禦に使用されたと考えるのが妥当な城です。 |
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<長山館>
雫石町大字長山字岩井花に所在し、別名岩井花館とも呼ばれています。
戸沢氏の一族長山氏の居館とされています。
1540年(応永31年)石川高信に攻められたときは自らの手で城を焼き払って、戸沢政安とともに角館に落ちたとされています。 |
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<舘市館>
盛岡市繋字舘市に所在し、別名繋古館とも呼ばれ、南北朝時代の滴石城の支城と考えられます。
館主は滴石戸沢氏の一族手塚伊織と伝えられます。
戸沢宗家が角館に移ると手塚氏は滴石城主に、舘市館は同族の家臣高橋出雲になりました。
1586年(天正14年)の南部信直による雫石城攻略時には、館市出雲守が居住し、南部信直の人質となっています。 |
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<田口館>
盛岡市繋字湯の館に所在し、別名湯の館とも呼ばれています。
築城時期は不明です。
館主は戸沢氏の家臣田口氏で綱木萪内を所領していました。
1613年(慶長18年)南部利直から旧領を含めた350石の地行地を下繋に拝領しています。
現在田口一族は田沢湖町に在住しています。 |
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<八幡宮>
雫石城址にある八幡宮は滴石城主手塚左衛門の氏神でした。
1586年(天正14年)、南部信直によって雫石城は攻略され、1592年(天正20年)豊臣秀吉の命令によって城が破壊され神社も廃社となりました。
その後雫石氏の遺臣古館氏等によって再建されました。
1953年(昭和28年9月)雫石氏の後裔で宮野目村の雫石誠介氏の氏神から金属製で2寸程の御神体を遷座して現在に至っています。 |
<戸沢氏伝説−野菊は二度咲く>
大昔、滴石の野中に野菊という美女がいて滴石城のお殿様に召され、寵愛を受けていました。
ある年、城中で酒宴があったとき、野菊は思わず放屁をしてしまいました。
殿様は立腹なさり、野菊を城中より追い出してしまいました。
野菊は野中に帰り小屋を建て暮らしていました。
そして間もなく男の子を産みました。
その後10年ばかりたってから、お城の近くを「黄金のなる瓢箪の種はいらんかね」といって種物を売って歩く少年がいました。
賢そうな気品のある少年です。
城中でこの声を聞いた殿様は、その少年を呼び寄せて、怒った顔で「でたらめを言ってはならん。本当に黄金の瓢箪がなるのか」とたずねました。
少年は悪びれもせずに殿様を見つめ「はい、きっとなります。ただ一生に一度も放屁しない人が撒かなければなりません」と言いました。
殿様は笑って「一生に一度も放屁しない者などある筈がない」と言うと、少年はキッとした表情で「ではなぜ、私の母をお城から追い出したのですか」と言いました。
この少年が自分の子供であることが分かった殿様は、野菊親子を再び城中に迎えたと言います。
雫石の祝い歌に「雫石は名所どこ野菊の花は二度咲く」とあるのはこのことを唄ったものと言われています。 |
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野中 |
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野菊公園 |
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<戦国時代の岩手郡、紫波郡>
戦国時代の岩手郡、紫波郡には6つの大きな主力の城がありました。
紫波郡は、
「川村氏の大巻城」
「斯波氏の高水寺城」
の2つ。
岩手郡には、
「福士氏の不来方城(現盛岡市)」
「工藤氏の厨川城(現盛岡市安倍館)」
「川村氏の下田城(現盛岡市玉山区)」
「雫石氏の雫石城」
の4つ。
川村氏、工藤氏、福士氏は三戸南部側で、雫石氏は斯波氏で、両者の攻防戦は長期に渡っていました。
斯波氏は雫石に進出し、一方南部方の工藤氏の厨川城は室町時代までは現盛岡市天昌寺(里館)でしたが、戦国時代に入ると、斯波氏との攻防戦が長期に渡ることを予期して現盛岡市安倍館に新厨川城を築城しました。
さらにこれら主力城主の下に家臣団の小城がいくつも存在しました。 |

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雫石氏・雫石城 |
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| <斯波詮貞、滴石に入り雫石詮貞を名乗り、「斯波雫石御所」を開く。これにより斯波氏66郷を領す> |
| □ |
1545年(天文14年)
斯波詮真、岩手郡の太田、滴石を攻撃したが南部軍の石川高信に敗れて退却する。 |
| □ |
1546年(天文15年)
斯波詮真、岩手郡、太田、滴石を2度目の攻略により占領す。
同年末、滴石を雫石に改称し、詮高の二男詮貞を雫石城主にし、戸沢氏の継承とする。
また三男詮義を太田猪去に配置した。
これにより斯波氏、雫石郷三千貫文を領す。 |
| □ |
1549年(天文18年)
斯波詮高、南部領(福士領)向中野、本宮を攻略。これにより雫石川下流域はすべて斯波氏の所領となる。 |
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| <衰退への道> |
| □ |
1571年(元亀2年)
見前郷で斯波氏農民と南部氏農民の間で紛争が生じる。 |
| □ |
1572年(元亀3年)
| ○ |
南部軍斯波郡に進攻し、斯波軍敗れて見前郷を失う。 |
| ○ |
同年4月斯波御所の要請により遠野城主阿曽沼孫三郎広長の二男綾織越前広信を雫石氏の軍事顧問として招く。
広信、雫石城の改修工事と土樋堰水の工事に入る。 |
| ○ |
斯波氏は南部氏の支族、九戸政実の弟、弥五郎を娘婿に迎え、知行として高田村を与えた。
弥五郎は高田吉兵衛と改名した。 |
|
| □ |
1573年(天正元年)春
| ○ |
九戸実政、雫石詮貴のところへ晴山治部忠房を遣わし加担するように口上を伝えた。
詮貴は容易に領掌し200の手勢で厨川工藤氏の所領太田、大釜の両館を焼き払い、ただちに不来方城の福士氏を攻めたが後難を恐れて引き払った。 |
| ○ |
同年7月、征夷大将軍足利義昭、槙島城にて織田信長に敗れて室町幕府事実上滅亡す。
義昭、京都を追放される。
これにより斯波氏、後ろ盾を失う。 |
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| □ |
1575年(天正3年)
軍師綾織越前、雫石城改修工事完了、土樋堰水、雫石城に達し完了。 |
| □ |
1576年(天正4年)
雫石詮貴、軍師綾織越前を厨川工藤氏、川村氏の備えとして、大釜篠木に配置し、「越前堰」を掘らせる。 |
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雫石城本丸跡 |
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雫石城本丸跡 |
| <雫石城落城> |
| □ |
1582年(天正10年)
南部晴政死去す。
田子城主南部信直を三戸城主に迎える。 |
| □ |
1583年(天正11年)
南部信直、斯波の大萱生氏を攻撃す。 |
| □ |
1584年(天正12年)
信直、川村、田頭、沼宮内、川口の諸氏200騎で雫石城北方の名子の台地に陣を敷いたが1日で引き上げた。 |
| □ |
1585年(天正13年)
信直、再度200騎の兵で晴山に陣を敷いたが1日で引き上げた。 |
| □ |
1586年(天正14年)
| ○ |
斯波高田城主で斯波氏一族の高田吉兵衛が離反して三戸南部に属す。
信直、高田吉兵衛を岩手郡中野館に駐在させて斯波勢の押さえとする。
斯波軍、岩手郡に進攻したが撃退される。 |
| ○ |
同年9月29日、雫石城、信直に3度目の攻撃を受けた。
そこで雫石久詮は、繋舘市城主高橋出雲を三戸に送って和を請うたが、許されずに攻撃を受けることになった。 |
| ○ |
雫石城主久詮は、雫石城を戸沢氏家臣、手塚左京に譲り、斯波高水寺城に退却した。 |
| ○ |
その後、手塚氏は繋舘市城に退却したため雫石城を守るのは百姓達ばかりとなって雫石城は落城した。
三戸に出向した高橋出雲は人質となっていたが返され、一方手塚左京は仙北角館に落ちた。 |
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| □ |
1591年(天正19年)
南部信直、雫石城に八日町太郎兵衛を配置す。
同年秀吉の一領主一城の方針により雫石城は破却された。 |
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工藤氏・厨川城 |
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厨川工藤氏の居城−盛岡市安倍館
| 鎌倉時代 |
| □ |
1189年(文治5年)
工藤小次郎行光は、源頼朝の配下で、奥州藤原氏攻め「奥州合戦」に参陣し、その論功行賞により西岩手郡を拝領した。
工藤行光は伊豆国の工藤庄司景光の長男で、父子で奥州征伐に従軍した。 |
| □ |
1219年(承久元年)
3代将軍源実朝が暗殺され、北条政子が代行、執権である弟 北条義時が補佐。
次第に北条氏の力が強くなり、厨川工藤氏の所領 岩手郡は北条得宗領となっていく。 |
| □ |
1322年(元亨2年)
津軽の安藤氏、蝦夷沙汰職の相続をめぐって大乱勃発。
鎌倉幕府は南部実継に鎮定を依頼、その子長継が奥州糖部郡に鎌倉より出兵、同年糖部郡(現青森県南部町)に着任。 |
| □ |
1328年(嘉暦3年)
南部長継、津軽安藤の乱を平定す。 |
| □ |
1331年(元弘元年)
南部実継、長継親子、鎌倉幕府倒幕に参戦。 |
| □ |
1333年(元弘3年)
師行、南部長継の養子となり八戸根城を築城す。
兄 時長、政長を新田義貞の倒幕軍に参戦させ、義貞軍鎌倉を攻め滅ぼす。
鎌倉幕府滅亡す。
同年三戸南部信長、鎌倉方であった岩手郡厨川の工藤氏を攻め落とす。 |
| 室町時代(南北朝) |
| □ |
1334年(建武元年)建武の中興
陸奥守鎮守大将軍 北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷の2/3を給す。 |
| □ |
1341年(興国2年)
陸奥介鎮守大将軍 北畠顕信、石巻、日和山城より、八戸南部政長、滴石の戸沢、和賀、河村氏に対し、北朝軍を対治指令し、厨川合戦を発動す。 |
| □ |
1345年(興国6年)
北畠顕信、南出羽より岩手郡滴石に出陣す。 |
| □ |
1346年(正平元年)
顕信、岩手郡滴石に滴石御所を開く。 |
| □ |
1350年(正平5年)
顕信、上田城合戦を指揮。 |
| 以降厨川工藤氏の記述が無くなります。南朝軍に敗れて力が弱まったのでしょう。 |
| 安土・桃山時代 |
| □ |
1592年(天正20年)(文禄元年)
秀吉の一国一城令が行われ、南部領内の諸城破却する。
破却城数36城、仔置城12城
この中に厨川城・平城・工藤兵部少輔持分とあり、厨川工藤氏は戦国時代まで400年生き残り、三戸南部氏に組み込まれていきました。
現在の盛岡市は鎌倉から安土・桃山時代まで400年間、工藤氏の支配地でした。 |
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鎌倉御家人の配置
| 葛西清重 |
−伊沢・磐井・牡鹿・他数ヶ所 |
| 工藤行光 |
−岩手郡の一部 |
| 多田忠頼 |
−和賀郡 |
| 河村秀清 |
−斯波郡と岩手郡の一部 |
| 足利義兼 |
−斯波郡の一部 |
| 阿曾沼広綱 |
−遠野 |
| 佐々木頼基 |
−閉伊郡 |
| 伊達朝宗 |
−伊達郡 |
| 千葉常胤 |
−胆沢郡 |
| 畠山重忠 |
−葛岡郡 |
| 伊達為家 |
−稗貫郡 |
| 他28名 |
発掘調査
この安倍館にある厨川工藤氏の居城、厨川城は、戦国時代に築城されたものであることが発掘調査により判明しています。
鎌倉時代〜室町時代の工藤氏の居城は雫石川に面した里館(厨川館:天昌寺)を拠点にしていましたが、戦国時代に入りより堅固で大きな城が必要であったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれたようです。
この城は1592年(天正20年)豊臣秀吉の一国一城令により取り壊されましたが、不来方城(福士氏)滴石城(戸沢氏)とともに岩手郡の拠点的な城のひとつでした。
厨川城は北上川に面した段丘を利用して築かれ、南から南館、中館、本丸、北館、外館、勾当館が並び、西側には帯曲輪がめぐります。 |


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斯波氏・高水寺城 |
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| 鎌倉時代 <足利義兼、奥州合戦に二度参戦す> |
| □ |
1189年(文治5年)
足利義兼は、源頼朝の奥州藤原氏攻めに参戦した。
足利義兼は頼朝の従兄弟で、義兼の妻は頼朝の妻政子の妹である。 |
| □ |
1190年(建久元年)
大河兼任の乱起こる。
泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。
津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。
伊沢家景を陸奥国留守職とする。 |
| □ |
1191年(建久2年)
頼朝、大河兼任討伐軍を編成。 東海道大将軍、千葉介常胤、東山道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る。
この時、義兼勝利の論功行賞により斯波郡を拝領す。 |
| □ |
1243年(寛元元年)
義兼の曽孫、足利家氏は斯波郡高水寺に着任し、斯波家氏を名乗る。
これが足利氏が斯波氏を名乗る最初である。
家氏は泰氏の長男であったが弟の頼氏が足利宗家を継いだ。
これは頼氏の母は北条一門の名越氏出身であったためである。
以後家氏→宗家→家貞と続く。 |
| □ |
1333年(正慶2年)
足利尊氏、幕府軍を率いて上洛。
幕府に反旗をひるがえし六波羅探題を滅亡させる。
同年新田義貞も挙兵し鎌倉に進軍し鎌倉幕府を滅亡させた。 |
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鎌倉時代後期の領地の分布
文治5年の奥州合戦で勝利した鎌倉武士のなかで最大の論功行賞を受けたのは、武蔵の国の葛西清重で、奥州奉行に任じられました。
現在の岩手県南部から宮城県北東部に至る広大な土地を与えられました。
岩手郡は工藤氏。
足利氏は斯波郡と宮城県加美郡(現宮城県大崎市)の2ヶ所が与えられ、鎌倉時代の初期から入部していました。
稗貫、和賀郡には中条氏(稗貫、和賀氏)。
閉伊郡の閉伊氏は近江国(現滋賀県)の佐々木氏の一族で早くから北条氏に属していました。
糖部郡(現岩手県二戸郡と青森県)は北条得宗領でした。
鎌倉時代の中頃から北条得宗家の権力が強まるにつれて、各地の地頭たちは北条家への家臣となるものが多くなり、地頭職も北条氏へと移行していきました。
また北条氏直属の被官として津軽安藤氏と閉伊佐々木氏がおり、津軽安藤氏は北条氏御内人で蝦夷管領として北方交易や日本海交易に強大な力がありました。
この段階では糖部郡は北条得宗領であり、南部氏の所領は見あたりません。 |
岩出山城と高水寺城
現宮城県大崎市は足利氏の所領で南北朝時代、奥州探題であった斯波(足利)家兼により築城され、岩手沢城と呼ばれていました。
安土・桃山時代、大崎(斯波)氏は秀吉の鎌倉攻めに参戦しなかったため領地没収となり、伊達政宗に与えられました。
このとき正宗は、岩手沢城を岩出山城と改称し、10年居住しました。 |
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岩出山有備館 |
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岩出山城 |
| 南北朝時代 <北朝軍−奥州管領> |
| □ |
1334年(建武元年)
建武の中興。
後醍醐帝、北畠顕家を陸奥守として奥州多賀国府に派遣。
南部師行、糖部郡代となり八戸根城を築城。 |
| □ |
1335年(建武2年)
足利尊氏、弟家長を陸奥守(奥州管領兼奥州大将軍)として斯波郡高水寺に下向させ、高水寺城を築城させる。 |
| □ |
1336年(建武3年)
南朝、義良親王を陸奥大守、顕家を鎮守府将軍に任命。
同年、北朝尊氏、家貞の子家兼を陸奥国探題に任命。
家兼、斯波氏を名乗り岩手沢城(現宮城県大崎市岩出山城)を築城。
のち大崎氏を名乗る。 |
| □ |
1337年(延元2年)
斯波家長郡、鎌倉で顕家軍と戦い、家長敗れて、杉本観音堂で自殺、17才であった。 |
| □ |
1338年(延元3年)
北畠顕家、大坂和泉石津の戦いに敗れて討死する。
北畠親房、後任に次男顕信を陸奥介鎮守大将軍に任命す。 |
| □ |
1340年(興国元年)
北畠顕信、吉野朝から奥州に出陣し、石巻の日和山に将軍府を置く。 |
| □ |
1341年(興国2年)
将軍顕信、八戸南部政長、滴石の戸沢、和賀、河村氏に対し北朝軍(斯波氏)を対治指令し、厨川合戦を発動す。厨川城攻撃を受け南朝優勢。 |
| □ |
1345年(興国6年)
将軍顕信、南出羽より滴石に出陣。 |
| □ |
1346年(正平元年)
将軍顕信、滴石に滴石御所を開設。(現つなぎ温泉か?) |
| □ |
1350年(正平5年)
上田城合戦を指揮、(現盛岡市)南朝勝利。 |
| □ |
1351年(正平6年)
将軍顕信、滴石御所より出陣し、府中奪回作戦、府中の占拠に成功。 |
| □ |
1352年(正平7年)
北朝、斯波、大崎氏、府中を攻撃、顕信敗れて滴石御所より福島県宇津峰城に移る。
これにより南朝の力が弱まる。 |
| □ |
1392年(明徳3年)
南北両朝合体す。 |
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| 室町時代 <室町の名門
足利> |
| □ |
1396年(応永3年)
建武の中興以来一貫して南朝軍であった大巻館の河村秀基が斯波氏に仕えることになった。 |
| □ |
1411年(応永18年)
南部守行陸奥国司に任ぜられる。 |
| □ |
1492年(明応元年)
陸前国の大崎(斯波)教兼が斯波郡の地頭職となる。 |
| □ |
1495年(明応4年)
大崎教兼の子詮高、高水寺城に住む。 |
| □ |
1521年(大永元年)
糖部南部氏と和賀氏、斯波の郡山で合戦す。 |
| □ |
1537年(天文6年)
斯波の郡山において和賀義方と南部晴政の両勢衝突、和賀方敗退する。 |
| □ |
1540年(天文9年)
南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏敗れて角館に敗走す。滴石は南部領となる。 |
| □ |
1545年(天文14年)
斯波氏は岩手郡太田(現盛岡市太田)、南部滴石城を攻略。
南部晴政軍敗れて三戸に敗走す。
同年斯波氏滴石城を雫石城(雫石御所)に改め、詮高の二男詮貞を城主とし雫石詮貞を名乗る。また太田にも三男詮義を猪去館(猪去御所)に配置した。
これにより斯波氏、66郷を領す |
| □ |
1549年(天文18年)
斯波領農民と南部領農民の間に論争があり、斯波方は南部領に侵入。
その結果、雫石川下流は斯波領となった。
この後、斯波氏と南部氏の戦いが繰り返されたが勝負はつかず、侵略した土地は南部方へ返還することで和解した。 |
| □ |
1571年(元亀2年)
斯波領農民と南部領農民との間にまた紛争が起きる。 |
| □ |
1572年(元亀3年)
紛争が原因で、合戦が起こった。斯波方が破れて、見前郷を失った。 |
|
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| 安土・桃山時代 <滅亡への道> |
| □ |
1573年(天正元年)
斯波氏は南部氏の支族九戸政実の弟、弥五郎を娘婿に迎え、知行地として高田村を与えた。弥五郎は高田吉兵衛と改名し高水寺城の一郭に居住した。 |
| □ |
1583年(天正11年)
南部信直、斯波の大萱生氏を攻撃す。 |
| □ |
1586年(天正14年)
高田吉兵衛は斯波氏との間が不和となり、身の危険を察し斯波方を脱出し、三戸南部に逃げ帰った。
同年高田吉兵衛を南部氏に帰属させて、岩手郡中野館に入れる。
斯波軍、岩手郡に進攻したが撃退される。
南部信直、斯波雫石城を攻略。斯波雫石氏高水寺城に敗走す。 |
| □ |
1588年(天正16年2月)
15代将軍足利義昭、征夷大将軍位を辞す。これにより斯波氏は急激に衰退す。 |
| □ |
1588年(天正16年8月)
南部信直、大軍をもって斯波高水寺城を攻略。斯波詮直は山王海に走り斯波氏滅亡す。
斯波氏は、家長から詮直まで約250年間、斯波郡を支配したが南部領に組み込まれていった。
この年南部信直は斯波を志和に改名す。 |
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| <郡山城> |
| □ |
1591年(天正19年)
南部氏、高水寺城を修復して郡山城と改称。 |
| □ |
1592年(天正20年)
秀吉の一国一城主義により南部領内48ヶ城のうち36城を破却したが、郡山城は破却せず。盛岡城工事中は、この郡山城を宿館とした。南部利直は10年間居住した。 |
| □ |
1667年(寛文7年8月)
郡山城破却。 |
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川村氏・大巻城 |
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<河村氏>
河村氏の発祥の地は、相模国足柄上郡河村郷(現神奈川県足柄上郡山北町)といわれます。
藤原秀郷の十一世河村秀高の四男秀清が、陸奥河村氏の祖となりました。 |
| □ |
1180年(治承4年)
秀清の兄 義秀は石橋山の合戦で、平家方に味方したため、所領を没収され斬罪を申しつけられたが、母が政子の侍女となった京極の局であったことから許されて蟄居していた。 |
| □ |
1189年(文治5年)
そこで、13才の千鶴丸は名を隠して、頼朝の奥州攻めに従軍した。
阿津賀志山の戦いで奪戦し、頼朝の目にとまり、加々美次郎長清が鳥帽子親となって元服して、名を「四郎秀清」と改めた。
論功行賞により、岩手郡・志波郡の北上川東部地区を与えられ、彦部の大巻館(現紫波町彦部大巻)に、本拠を構えた。
しかし秀清は拝領した領地に留まることなく相模国に戻り、一族の時秀の子、貞秀が配置され、その子孫が奥州河村氏の分流となった。 |
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| <南北朝時代−河村氏南朝に属す> |
| □ |
1340年(興国元年)春
南朝軍、陸奥介鎮守府将軍北畠顕信、吉野朝から奥州に出陣し、石巻の日和山城(葛西氏)に将軍府を置く。
この年河村氏は南朝軍に属す。 |
| □ |
1341年(興国2年)3月
顕信将軍、八戸南部長政、滴石の戸沢、河村、和賀に対し北朝軍を対治指令し栗屋川合戦を発動す。 |
| □ |
1345年(興国6年)9月
顕信将軍、南出羽より岩手郡滴石に出陣。
同年、将軍南部長政に命じ、葛西、和賀、戸沢、川村等とともに斯波郡高水寺を攻める。 |
| □ |
1350年(正平5年)3月
顕信将軍、上田城合戦を指揮する。 |
| □ |
1352年(正平7年)7月
顕信将軍、滴石御所より福島県宇津峰城に移る。 |
| □ |
1356〜1360年(延文年間)
河村氏、北朝斯波氏に対抗できなくなってくる。 |
| □ |
1392年(明徳3年)
南北朝合体す。 |
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| <室町時代−河村氏斯波氏(足利氏)に属す> |
| □ |
1396年(応永3年)
河村秀基、斯波氏に仕えて、佐比内、木更津村を与えられる。
以後、150年間斯波氏の下で平和な時代が続く。
川村氏の一族は繁栄し、大萱生氏、栃内氏、手代森氏、江柄氏、大巻氏、長内氏、日戸氏、玉山氏、川口氏、渋民氏、沼宮内氏、下田氏に分流した。 |
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| <戦国時代−岩手郡内の川村氏(日戸、玉山、川口、渋民、沼宮内、下田の諸氏)南部氏に仕える> |
| □ |
1540年(天文9年)8月
三戸の南部晴政が叔父石川高信の献策によって岩手郡に勢力拡大を図り、高信を使者として岩手郡内の川村氏、工藤氏、戸沢氏に対し、三戸に参向して南部氏に服従することを誓うことを伝えた。
川村氏(下田、沼宮内、川口、渋民、玉山、日戸の諸氏)と厨川工藤氏(田頭、平館、葛巻の諸氏)はこの申し出に従った。
しかし滴石戸沢政安はこれを拒否した。
これにより石川高信、滴石城を攻略、戸沢政安破れて角館に敗走する。 |
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<玉山館跡>
所在地/岩手県盛岡市玉山区玉山字一笠[
城内[地区の古刹、東楽寺[の北東にある山城です。
大館・小館の2つの館で構成されています。
大館は、東西約70m、南北約110mで、上から見ると台形の形をしています。
北川の小館は、東西約25m、南北約40mで、三角形の形をしています。
大館と小館の間には堀があります。 |
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<日戸館跡[>
所在地/岩手県盛岡市玉山区日戸字古屋敷[
日戸館は、常光寺の西側にある山城です。
それぞれ堀で区切られた上館・中館・下館の3つの館からなり、館全体の大きさは、東西約200m、南北約100mになります。
日戸館は、河村一族の一人、日戸氏の居館です。 |
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<下田館跡[>
所在地/岩手県盛岡市玉山区下田字生出袋[
下田館は、曹洞宗の寺院喜雲寺[西側に隣接しています。
北上川[、松川[、生出川[に三方を囲まれた館で、東西約100m、南北約200mの大きさです。
河村一族の一人、下田弥三郎秀祐の居館でした。 |
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| 盛岡略年表 |
749
勝宝元年 |
奥州から初めて黄金を献じた |
770
宝亀元年 |
坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍とする |
789
延暦8年 |
紀古佐美征討将軍、胆沢の地を大軍で攻めたが大敗 |
794
延暦13年 |
坂上田村麻呂を征夷副将軍に命じ胆沢の蝦夷を征す |
797
延暦16年 |
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ず |
802
延暦21年 |
坂上田村麻呂、胆沢城を築く |
803
延暦22年 |
坂上田村麻呂、志波城を築く。この年、征夷大将軍を辞職する |
804
延暦23年 |
田村麻呂を征夷大将軍に再任する |
811
弘仁2年 |
和我、稗縫、斯波の三郡建置。同年文室綿麻呂を征夷将軍に任ず |
813
弘仁4年 |
徳丹城が設置される |
1051
永承6年 |
安倍頼良そむき、源頼義を陸奥守に任じて追討す |
1056
天喜4年 |
前九年の役おこる |
1062
慶平5年 |
前九年の役おわる。源頼義、厨川柵にて安倍貞任、藤原経清を斬る |
1081
永保元年 |
源義家、陸奥守に任命される |
1083
永保3年 |
藤原清衡に伊沢・江刺・和賀、藤原家衡に稗貫・志波・岩手郡を分領させる。後三年の役はじまる |
1087
寛治元年 |
源義家、金沢柵陥落し、清原氏滅亡する。後三年の役おわる |
1089
寛治3年 |
藤原清衡、陸奥押領使となり、伊沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡を領し、江刺郡豊田館に居住す |
1124
天治元年 |
藤原清衡、中尊寺金色堂を建立す |
1126
大治元年 |
清衡、中尊寺金堂・三重塔などを建立す |
1156
保元元年 |
保元の乱 |
1170
嘉応2年 |
藤原秀衡、鎮守将軍となる |
1175
安元元年 |
藤原俊衡、樋瓜館に住む |
1184
寿永3年 |
平兼盛、磐手郡滴石戸沢に移り住む |
1187
文治3年 |
藤原秀衡、死去 |
1189
文治5年 |
奥州合戦、源頼朝、藤原泰衡を攻める。伊達郡阿津賀志山の合戦で、三沢安藤四郎の兵略によって奥州軍敗走。河田次郎の裏切りにより泰衡討たれる。葛西清重、頼朝より陸奥国御家人の奉行を命じられる。また津軽には宇佐美平次実政を惣地頭として派遣。頼朝、鎌倉へ帰途。工藤小次郎行光に岩手郡を与える |
1190
建久元年 |
大川兼任の乱、泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とす |
1192
建久2年 |
頼朝、東海道大将軍、千葉介常胤、東海道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る |
1268
文永5年 |
足利尾張守家氏。斯波郡に下向。高水寺に在城す |
1333
元弘3年 |
南部信長、岩手郡厨川の工藤氏を攻めて降す |
1334
建武元年 |
北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷を給す |
1334
建武元年 |
建武の中興 鎮守府将軍北畠顕家、奥州津軽に下向。南部師行を郡代として八戸根城を築城。また子、顕成に津軽浪岡を所領として与える |
1335
建武2年 |
足利尊氏、斯波家長を奥州管領として高水寺城に下向させる |
1336
建武3年 |
十三湊安藤師季、八戸根城を攻撃 |
1338
延元3年 |
北畠顕家、南部師行、大阪、和泉、石津において戦死。十三湊、大津波に襲われる。藤崎城主安藤秀光、大光寺に入り大光寺氏を名乗る |
1341
興国2年 |
北畠顕信、将軍となり、厨川合戦を発動す。この年顕信、滴石御所を開く。安藤師秀、八戸南部政長の勧誘に応じ南朝方となる |
1392
明徳3年 |
南北両朝合体す |
1411
応永18年 |
三戸南部守行、秋田湊の安藤鹿季と出羽仙北に戦う |
1418
応永25年 |
「関東大名南部」上洛。将軍義持に馬100頭・金1,000両を献上す。この後「本八戸城」築城か? |
1423
応永30年 |
安藤陸奥守、新将軍義量就任の賀として馬20頭・鳥5,000羽・銭2万疋・海虎(ラッコ)の皮30枚・昆布500把を献上 |
1432
永享4年 |
十三湊、安藤盛季、康季南部守行に敗れ、蝦夷ヶ島に敗走。幕府、調停に乗りだす |
1436
永享8年 |
八戸糖部南部、斯波で和賀氏と合戦す |
1443
嘉吉3年 |
津軽十三湊、安藤義季、三戸南部義政に敗れ蝦夷地に敗走す |
1445
文安2年 |
安藤義季、津軽西浜に上陸 |
1453
享徳2年 |
安藤義季、南部氏に敗れ自害 |
1454
享徳3年 |
湊安東政季、南部氏に敗れて函館に敗走す |
1456
康正2年 |
安東政季、秋田に上陸し檜山城を築く |
1467
応仁元年 |
浪岡北畠顕義、浪岡城築城 |
1470
文明2年 |
安東師季、津軽回復を目指し藤崎館を攻めるが成功せず |
1491
延徳3年 |
南部久慈光信、津軽西浜種里城に入る |
1492
明応元年 |
陸前国の大崎教兼が斯波郡の地頭職となる |
1495
明応4年 |
大崎教兼の子、詮高、高水寺城に住む |
1498
明応7年 |
南部光康、横内城(現青森市)を築城す |
1502
文亀2年 |
南部久慈光信、大浦城を築き、嫡男盛信を置く |
1521
大永元年 |
糠部南部氏と和賀氏、斯波郡の郡山で合戦す |
1524
大永3年 |
三戸南部安信、津軽地方を平定す |
1533
天文2年 |
南部安信の弟高信、津軽の反乱を鎮圧する。高信は津軽郡代に任じられ、石川城(後弘前城)に拠る |
1537
天文6年 |
三戸南部氏、南部晴政、斯波の郡山で和賀氏と合戦、和賀氏敗退す |
1539
天文8年 |
南部彦三郎安政、上洛、将軍義晴より偏諱をうけ晴政と改名 |
1540
天文9年 |
南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏新庄に敗走す |
1545
天文14年 |
斯波氏、南部滴石城を攻略、三戸南部晴政軍敗れて三戸に退く |
1562
永禄5年 |
檜山安東愛季、比内長岡城を攻め浅利則祐を自害させる |
1567
永禄10年 |
大浦為信、義父為則の跡を継ぎ大浦城主となる |
1569
永禄12年 |
安東愛季の軍勢、南部領鹿角郡に侵攻。南部石川高信これを破る |
1571
元亀2年 |
大浦為信、石川城を攻略、石川高信、自害す |
1572
元亀3年 |
斯波氏、南部晴政軍に敗れ、見前郷を失う。斯波氏、九戸政実の弟、弥五郎(高田吉兵衛)を女婿に迎える |
1578
天正6年 |
大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる |
1579
天正7年 |
安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開 |
1582
天正10年 |
南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする |
1583
天正11年 |
安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合 |
1585
天正13年 |
大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗 |
1586
天正14年 |
南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ |
1588
天正16年 |
三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡 |
1589
天正17年 |
湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる |
1590
天正18年 |
南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏 |
1591
天正19年 |
九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める |
1592
文禄元年 |
南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる |
1594
文禄3年 |
南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す |
1597
慶長2年 |
盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる |
1598
慶長3年 |
南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡 |
1599
慶長4年 |
南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる |
1600
慶長5年 |
家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣 |
1601
慶長6年 |
利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡) |
1602
慶長7年 |
鹿角白根金山が発見される |
1614
慶長19年 |
利直、大阪冬の陣に出陣 |
1615
元和元年 |
大阪夏の陣おこる |
1625
寛永元年 |
三戸旧城下の町民を盛岡に移す |
1632
寛永9年 |
南部利直が江戸桜田邸で逝去す |
1633
寛永10年 |
南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める |
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| 資料集 |
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