平泉、中尊寺、毛越寺、奥州藤原氏の案内 岩手県盛岡観光、歴史情報

盛岡

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毛越寺浄土庭園 岩手県盛岡市繋温泉(つなぎ温泉)ホテル三春
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平泉の文化遺産を世界文化遺産登録に

奥州藤原氏 平泉の仏教文化と行政曲水の宴 岩手県盛岡市繋温泉(つなぎ温泉)ホテル三春  

平泉の浄土思想


奥州藤原氏、初代藤原清衡の父は、前九年の役の最後の戦い、現盛岡市厨川柵の戦いで敗れて処刑された藤原経清です。
藤原経清は官軍でしたが安倍一族、安倍頼良 貞任に味方し、官軍源頼義、義家と戦いました。
前九年の役、後三年の役を通じ多くの戦死者を出し地獄を味わいました。
清衡はこの戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺を再興し平泉の建設に着手しました。
この理想の世界が極楽浄土世界の建設でした。

清衡は豊富な産金、漆、馬を活用し、中央文化だけではなく、中国文化も取り入れ、平泉文化の礎を築きました。
2代基衡は毛越寺、観自在王院の建立に着手し、3代秀衡は基衡の遺志を継いで毛越寺を完成し、さらに無量光院を建立しました。
仏教思想の平和浄土のために建設されたのが平泉文化です。

当時、平清盛は源氏討伐のために秀衡に軍を率いて上洛するように勧誘しましたが秀衡は平和主義者のためにこれに応じませんでした。
しかし平和主義者秀衡も息子の泰衡の代に、国家統一主義者、源頼朝の大軍勢の前に敗れることになりました。
ここに100年続いた栄華の奥州藤原氏は滅亡しました。
時代は貴族の時代から武士の時代に大きく変化していきました。



平安末期 奥州藤原時代

毛越寺 平泉
 
毛越寺

<平泉文化>

安倍氏が滅ぶと制圧に協力した出羽の清原氏が支配者になり、やがて一族内紛の後三年の役が起きて安倍氏血縁の藤原氏が奥州を支配しました。
藤原氏は豊富な資源にものをいわせて、京の都に匹敵する平泉文化を築きました。
しかし、この藤原氏も源頼朝に滅ぼされ、奥州は鎌倉幕府の直轄になり、平泉攻め参戦で論功があった、葛西清重、千葉常胤、足利義兼、伊達朝宗、工藤行光、河村秀清など38名の鎌倉御家人に領地が与えられました。
安倍氏・清原氏・藤原氏の関係系図


平泉前史 仏教(1)

<北上川流域における仏教文化の定着>

平安時代の9世紀後半から10世紀頃にかけて、朝廷の蝦夷政策により北上川流域では、志波城、徳丹城、胆沢城が設置されました。
この過程において在地の豪族層により村々に寺院や仏堂が建設されていきました。
こうした平安期の寺院や仏堂は現仙台市、多賀城市付近から平泉を過ぎて盛岡市の間に多く存在しています。

安倍氏の奥六郡と呼ばれる北上川流域では、すでにこの時代に仏教文化は定着したと思われます。
安倍氏による一関骨寺遺跡、平泉の長者ヶ原廃寺遺跡、紫波町高水寺の十一面観音像、盛岡市玉山区東楽寺、十一面観音像、金剛力士像などの平安期の寺院跡や仏像が存在しており、定着が確認できます。

高水寺
紫波町 高水寺
  高水寺
本造十一面観音が入っている堂


平泉前史 仏教(2)

<この世の終わり−末法思想と経塚の造営>

仏教では、釈迦の立教から1,000年(500年とも)を正法、次の1,000年を像法、その後の10,000年を末法と言います。
末法の時代には釈迦の正しい教えが及ばなくなり、世の中に大きな乱れが生じると考えられていました。
この下降史観が末法思想です。

日本では、平安時代から現実味を帯びて考えられるようになりました。
とくに1052年(永承7年)が末法元年とされ、人々は恐れて厭世的思想に傾いていきます。
この時代は貴族政治や仏教界の腐敗の一方で、新たに武士が台頭しつつある動乱期であり、各地で治安が乱れました。

末法思想はこうした社会情勢とも重なり、有力者を中心に経典を埋納して未来に保存する事業が盛んになりました。
東北地方では、末法思想の流行が、前九年、後三年の合戦の時期とも重なり、この後、安倍氏、清原氏の領地を引き継いだ奥州藤原氏の国づくりのもと、藤原氏一門を中心に、経塚の造営が盛んに行われました。

渥美灰釉壷
渥美灰釉壷
  つなぎ温泉
つなぎ温泉
盛岡市繋温泉一本松経塚
ここから出土している経壷は渥美灰釉壷で、平安時代末期、ちょうど藤原清衡、基衡の時代のものです。
繋、または雫石盆地内に住む有力者が造営したものと推定されます。

珠洲壷
珠洲壷
  五郎沼
五郎沼
紫波町南日詰遺跡経塚
比瓜館と五郎沼の南方、南日詰遺跡内から発見された珠洲壷は、奥州藤原氏時代のものです。
日詰は藤原清衡の四男清綱の館があり居住していた所です。


藤原清衡 中尊寺金色堂

中尊寺金色堂

<中尊寺>

850年(嘉祥3年)
中尊寺は慈覚大師の創建と伝えられます。
それから250年ほど後
1105年(長治2年)
後三年の合戦収束ののち、藤原(清原)清衡は江刺郡豊田館から平泉に移転、中尊寺造営に着手しました。
最初院とも号した多宝寺や大長寿院など、清衡は次々と大伽藍を完成させていきます。
1124年(天治元年)
金色堂が完成しました。
堂内は、螺鈿や蒔絵、透かし彫りの金具で荘厳され、平安時代後期の工芸技術の粋を現代に伝えています。
1126年(大治元年)
大法要を営み、その供養願文には「前九年、後三年合戦の犠牲者を、敵味方区別なく弔い、数多の御霊を浄土に導き、奥羽両国に平和な仏国土を築きたい」という不戦の願いがこめられました。
さらに平泉を中心として、南は白河から北は外ヶ浜までの道程の一町毎に、金色堂の阿弥陀如来を図絵した傘塔婆を建立しました。
こうした藤原清衡の意思は、基衡、秀衡、泰衡へと受け継がれ、寺院の整備に合わせて、街も拡大され、都市平泉が形成されていきます。
そして奥羽各地の村々には、阿弥陀堂などの寺院や神社が建立されました。

金色堂仏壇   中尊寺山道

<中尊寺建立供養願文−抜粋>

鐘の音は あらゆる世界に 分けへだてなく 響き渡り みな平等に苦しみを抜き去り 安楽を与える 攻めてきた官軍(都の軍隊)も守った蝦夷も 度重なる戦いで 命を落とした者は 古来幾多あったろうか いや みちのくおいては 人だけではなく けものや鳥や、魚、具も 昔も今もはかりしれないほど犠牲になっている 霊魂は皆 次の世の別な世界に移り去ったが 朽ちた骨は塵となって 今なおこの世に憾みを遺している 鐘の音が大地を動かす毎に 罪なく犠牲になった霊が 安らかな浄土に導かれますように
口語訳 大矢邦宣
中尊寺建立供養願文


藤原清衡、基衡 平泉館(柳之御所跡)

柳之御所跡
<平泉館−柳之御所>

奥州藤原氏の政治拠点は平泉館であり、この館が奥羽両国統治の中心でした。
その遺跡は、中尊寺南東方向に張り出した舌状台地に立地する、柳之御所遺跡です。
この平泉館は藤原清衡の開府から、基衡、秀衡、泰衡まで、1189年(文治5年)平泉が滅亡するまで、一貫して平泉の行政の中心として機能した館です。


藤原清衡〜俊衡 比瓜館

<「館」について>

「館」は「タテ」と読むのではありません。
「たち」と読みます。

吾妻鏡には、豊田館、衣河館、平泉館、比爪館、厨河館などが出てきます。

これは「政庁」のことで、中央政庁、地方政庁を意味します。
つまり行政庁のことです。

奥州藤原氏の直接支配地は奥六郡と出羽三郡であり、他は婚姻政策による間接支配であったろうとされています。

平泉館(柳之御所)を中央政庁として各郡ごとに直接支配に地方政庁があったとされています。
江刺郡→豊田館 志波郡→比爪館 岩手郡→厨河館 などです。

 

<比爪館 藤原清綱→藤原俊衡>

藤原清衡の四男清綱が、志波郡比爪館(現紫波町赤石)に本拠を構え、居住地の地名を名字とし、「樋爪」氏を名乗りました。
奥六郡内に同族を分置しなかった清衡にしては、特別の配置です。
これは、北上川河東の佐比内河・赤沢川・山屋川(天王川)の砂金や、良馬育成の牧場の管理のために配慮したものと考えられています。

二代俊衡は、仏堂に帰依して、「蓮阿入道」ともいい、大荘厳寺の開基です。
頼朝の奥州攻めで樋爪氏は滅亡しましたが、俊衡は老齢のために本所比爪館は安堵され、泰衡の遺子秀安を養育しながら、生涯を送ったといわれています。

なお清綱の娘は佐藤庄司正信の妻で、源義経に従軍しました。
佐藤継信、忠信兄弟の母です。
奥州藤原氏は婚姻政策により東北の地を管理していたものと思われます。

 



五郎沼薬師神社   <五郎沼薬師神社>

南日詰字箱清水189。
比(樋)爪館内部にあり、比爪太郎俊衡の勧請です。
祭神は少彦名命。
本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、社務所。
例祭9月10日。



<吾妻鏡(奥州合戦) 平泉→比爪館→陣ヶ岡>

1189年(文治5年8月22日)
大雨、申の刻に頼朝は平泉の館に到着された。
泰衡はすでに行方をくらませ、館はまた煙と化していた。
周囲数町はひっそりとして人影もなかった。
8月25日
泰衡が行方をくらませているので、軍兵を方々に分けて捜索したが、いまだにその存亡が判明しなかった。
そこで、なお奥の方を追うよう決定した。
9月2日
頼朝は平泉を出発され、岩井郡厨河の辺りに赴かれた。
これは泰衡が隠れ住んでいる所を捜索するためである。
また頼朝の祖である鎮守府将軍源頼義が朝敵安倍貞任を追討した頃、十二ヶ年間、所々の合戦で勝負が決まらず年を送っていたところ、ついにこの厨河柵において貞任らの首を獲た。
この昔の吉例によって、ここで泰衡を討ち、その首を獲ようと、内々に思案されていたからだという。
9月4日
頼朝は志波郡に到着された。
ところが藤原泰衡と親しい樋爪俊衡法師がこのことに驚き、同郡内の比爪館を焼き払って逃亡し、奥の方に赴いたという。
そこでこれを追討しようと、三浦介義澄ならびに義連、義村らを遣わした。
今日頼朝は陣岡の蜂杜に陣を敷かれた。


比瓜館跡全景

<泰衡の蓮>

1189年(文治5年)9月
源頼朝が28万4千騎の兵を引き連れて、陣ヶ岡蜂神社に布陣していた。
そこへ河田次郎が泰衡を殺害しその首を持参した。
泰衡の首は頼朝によって検証された後、長らくさらし首にされていた。
その後ひそかに父秀衡の眠る中尊寺の金色堂に安置された。
その時、泰衡の親戚関係にある樋瓜氏が五郎沼に咲いていた蓮の花を泰衡の首桶の中にたむけた。

この蓮の花が種子となり820年を経て現代によみがえったものです。

 




藤原忠衡 厨河館

<厨河館−稲荷町遺跡>
盛岡市稲荷町遺跡は12世紀後半の遺跡で、奥州藤原氏の厨河館と推定されています。
雫石川と諸葛川との合流点にあり、大館町と稲荷町にまたがって存在します。
大館町の地名はこの居館に由来する地名と考えられます。
居館の内容は平泉館(柳之御所遺跡)や比爪館遺跡の規模構造に近似しており、大規模なものです。
吾妻鏡の記述では、源頼朝が七日間滞在した場所です。

<厨川稲荷神社>

創建不詳。
1056年(天喜4)
前九年の役の時、陸奥守鎮守府将軍源頼義は陸奥の豪族安倍氏と厨川柵で最後の決戦をすることになり、この地に陣して大館地内荒屋の稲荷の祠に戦勝を祈念して安倍貞任軍を破ることができた。
1189年(文治5)
源頼朝は奥州藤原泰衡討伐の軍を起こして平泉を攻め落とし厨川館に進駐して祖父源頼義の偉業を偲び、功臣伊豆の工藤行光にこの地岩手郡を与えた。

諸葛川と厨川館跡
諸葛川と厨川館跡
  頼朝が参拝した厨川稲荷神社
頼朝が参拝した厨川稲荷神社

<吾妻鏡−厨河館>

1189年(文治5年9月10日)
陣ヶ岡から厨河柵までは二十五里行の行程だったので、黄昏時になる前に頼朝は厨河柵に到着されたという。
文治5年9月12日
岩井郡の厨河では、ここの東北の角の{仗次のはけを選んで御宿所に定められた。
今日、工藤小次郎行光が、否酒とかん飯を献じた。
これは当郡を行光が拝領することになったので特別に仰せがあり、この仕儀に及んだという。
文治5年9月13日
由利八郎(維衡)が御赦免に預かった。
文治5年9月14日
頼朝が陸奥・出羽両国の民部省図帳や大田文をはじめとする文書類を求められた。
ところが平泉の館が炎上したとき焼失したという。
その詳細を知ることは困難となった。
古老に尋ねられたところ、奥州の住人である清原実俊ならびに弟の橘藤五実昌が故実に明るいというので、召し出され詳細を問われた。
文治5年9月15日
藤原俊衡入道と弟の五郎季衡が降人として厨河に参上した。
俊衡は子息三人(太田冠者師衡、次郎兼衡、同河北冠者忠衡)を季衡は子息一人(新田冠者経衡)を伴っていた。
・・・頼朝は、俊衡入道は六十を超え高齢であったので、本領比爪を安堵された。
文治5年9月18日
秀衡の四男である本吉冠者高衡が降人となった。
下河辺庄司がこれを召し進めた。
泰衡の一方の後見である熊野別当は足利義兼が召し進めた。
およそ残党はことごとく今日捕らえ終えた。
文治5年9月19日
頼朝は厨河柵を発ち、平泉に帰られた。
厨河に逗留されたのは七日間であった。




浄土思想 仏教(3)

<金戒光明寺 地獄極楽図>

浄土思想を一図で表現した地獄極楽図。
手前に地獄(左)と娑婆世界(右)が描かれています。
上方に海をへだてて描かれる極楽浄土は、無量光院とよく似ていることがわかります。
(重要文化財、京都・金戒光明寺蔵)


金戒光明寺 地獄極楽図

<浄土思想−岩手日報(2008年11月7日記事)>

平泉の文化遺産の世界遺産化に向けクローズアップされた「浄土思想」。
だが、日本仏教・浄土思想史のながれにその思想がどのように位置付けられ、どう造形に反映しているのか?その合理的な説明は、必ずしもされてこなかった。
中尊寺仏教文化研究所主任の菅野成寛さんは、平泉藤原氏の十二世紀に特徴的な「天台本覚思想」との関連性を指摘。
平泉の浄土思想は「日本の十二世紀仏教思想のピークの一つ」であり、その典型的な造形として無量光院の構造を読み解く。

浄土とは、五世紀に漢訳された「浄土三部経」(「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」)によると「如来(仏)や菩薩が住む清浄な国土」の意味だ。

思想史的には来世浄土と現世浄土に大別されるが、平安時代中・後期は来世浄土=阿弥陀浄土信仰・文化が大流行した時代。
天台宗の高僧源信による「往生要集」(985年成立)が決定的な影響を及ぼし、全国各地に中尊寺金色堂はじめ阿弥陀堂が建立された。


藤原基衡 毛越寺・金堂円隆寺

<藤原基衡(〜1157年?)>

1128年(大治3年7月16日)
清衡死亡。
清衡には妻室平氏との間に六男三女があったほか、腹ちがいの男子もいた。
このため清衡の死後、相続権をめぐって兄弟間に紛争がおこった。
妾腹の子の長男惟常が内紛を起こしたのでこの首を切った。
しかし基衡の相続権が確立したのは清衡が死亡後10年も経てからであった。
1150年(久安6年)
毛越寺の造営開始す。
1153年(仁平3年)
摂関家領陸奥国本良・高鞍荘など五ヶ荘の年貢増徴問題について、左大臣藤原頼長と藤原基衡との間に交渉が行われる。
1156年(保元元年)
毛越寺完成す。
1157年(保元2年3月)
基衡死去。



<毛越寺の創建>

850年(嘉祥3年)
医王山毛越寺金剛王院は、天台宗の高僧、慈覚大師が創建したと伝えられている。
根本中堂を嘉祥寺と称し、大師自作の医王善逝の霊像を本尊としている。
常行堂も創立されていて、ここで秘法を修したという。
その後、盛衰とともに堂社僧坊が荒廃。
1156年(保元元年)
藤原基衡によって再興され、常行堂も復興された。



<吾妻鏡−毛越寺の事>

堂塔は四十余字、禅房は五百余字である。
基衡が建立した。
まず金堂は円隆寺と号する。
金銀をちりばめ、紫檀・赤木などを継ぎ、万宝を尽くし、多くの色を交えている。
本尊は、丈六の薬師像、同じく十二神将像(運慶が造った)を安置した。
講堂・常行堂・二階造りの惣門、鐘楼・経蔵などがある。
九条関白家(藤原忠通)が自筆で書かれた額を下され、参議藤原教長卿が堂中の色紙形を書いた。
次に嘉祥寺(いまだ完成しないうちに基衡が死去した。
そこで秀衡がこれを完成させた)は四壁と三面扉に、法華経二十八品の大意を彩色で描いており、本尊は薬師像で、丈六である。

1226年(嘉禄2年)
毛越寺炎上す。


常行堂
 
常行堂
 
1732年(享保17年)
現在の常行堂は仙台藩主伊達吉村の武運長久を願って再建された。
堂は宝形造りで須弥壇中央に木尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神がまつられている。
当初の常行堂は現在の位置より10mほど南方に位置し遺跡が残っている。




基衡の妻 観自在王院

<吾妻鏡−観自在王院>

観自在王院(阿弥陀堂と称する)は基衡の妻(安倍宗任の娘)が建立した。
四壁には洛陽の霊地・名所を描いた。
仏壇は銀である。高欄は磨金である。
次小阿弥陀堂も同人が建立した。
障子の色紙形は参議教長卿が筆を染めた。



<観自在王院跡にある墓碑>

観自在王院跡には、「基衡の室、安倍宗任の女」と刻んだ墓碑が立っています。
これには「仁平二年四月二十日有日」とあります。
仁平2年は清衡の死後24年目、基衡の治世になって22、3年の頃ですが、この頃、基衡は妻室を失ったのでしょう。
墓碑そのものは江戸時代の享保15年(1730年)9月13日、村上治衛照信が建てたとされています。
基衡の妻室の死亡年月日を知るための史料はこの墓碑だけです。


藤原秀衡 加羅御所

<吾妻鏡−秀衡の館の事>

金色堂の西方、無量光院の北に並んで宿館(平泉館と称する)を構えた。
西木戸に嫡子国衡の家がある。同じく四男の隆衡の宅がこれと並んでいる。三男の忠衡の家は泉屋の東にある。
無量光院の東門に一郭(加羅御所と称する)を構えて、秀衡の日常の居所とした。
泰衡がこれを継いで居所としていた。



<藤原秀衡年表>

1167年(仁安2年)
平清盛太政大臣となる。
1170年(嘉応2年)
藤原秀衡、鎮守府将軍に任命される。
1174年(承安4年)
この年、源義経、陸奥国に向かう。
1175年(安元元年)
源義経、平泉にて藤原秀衡の保護を受ける。
1176年(安元2年)
藤原秀衡、亡父基衡のために紺紙金銀字一切経を書写。
1180年(治承4年)
源頼朝挙兵。
1181年(養和元年)
藤原秀衡、陸奥守に任命される。
1185年(文治元年)
壇ノ浦の戦、平家滅亡。
1186年(文治2年)
これ以前、源頼朝、藤原秀衡に書状を送り、朝廷への貢馬、貢金は頼朝が伝信すると告げる。
西行法師、秀衡を訪ねる。
1187年(文治3年)
源義経、陸奥国の藤原秀衡のもとへ逃れる。
藤原秀衡、死去(67歳)。


藤原秀衡 鎮守府将軍・陸奥守

<北方の王者−鎮守府将軍・陸奥守>

清衡と基衡は、その土地の豪族としては最高位の「押領使」になりましたが、秀衡はさらに上位の「鎮守府将軍」に任じ従五位下にぎせられました。
ついには「陸奥守」という職に任命されました。
「鎮守府」に任ぜられたのは在地豪族としては二度目で、前九年の役の鎮定に武功があった清原武則でした。


藤原秀衡 無量光院

<吾妻鏡−無量光院(新御堂と称する)の事>

秀衡が建立した。
堂内の四壁の扉に観無量寿経の大意を描いている。
そればかりか秀衡みずから狩猟の様子を描いた。
本尊は阿弥陀像。丈六である。
三重の宝塔、院内の荘厳は、ことごとく宇治の平等院を模したものである。



<造営年代>

無量光院造営の年代を明記した史料は存在しませんが、中尊寺−清衡晩年、毛越寺−基衡晩年と同様に、秀衡の晩年と思われます。


中世都市 平泉
 




藤原泰衡

陣ヶ岡公園 関連施設「陣ヶ岡公園」
 
陣ヶ岡公園

<陣ヶ岡の由来>−伝説

802年(延暦20年)6月末のこと
坂上田村麻呂、本地に陣営し、蝦夷の大獄丸を攻めたとき、五日三夜にわたり大雨で大洪水となって陣場まで水が上った。
ところが不思議なことに陣場が浮き上がって陸地が高くなった。
このことから陣ヶ岡と呼ばれるようになったと伝えられている。

<陣ヶ岡に本陣を張った武将一覧>

景行43年
日本武尊 蝦夷征討野営
659年(斉明5年)
安倍比羅夫 蝦夷追討野営、神社創建
781年(天応元年)
道嶋宿禰 蝦夷追討野営、神社奉建
802年(延暦20年)
坂上田村麻呂 蝦夷征討野営、八幡宮奉建、屯衛山高水寺建立、蝦夷捕虜12,000人宿営
1054年(天喜2年)
安倍頼時 神社再建、陣ヶ岡遊楽地造成
1062年(康平5年)
源頼義、義家 蜂神社奉建、32,000騎本陣月の輪形奉造、八門遁甲の陣法修得、安倍貞任さらし首
1177〜1182年頃(治承・寿永年間)
藤原秀衡 蜂神社再建、王子廟奉建、高水寺再建、月の輪形修造、陣ヶ岡修道浄化の場造成
1189年(文治5年)
源頼朝 284,000騎陣営、泰衡さらし首
1248年(宝治2年)
足利家氏 八幡宮再建
1336〜1337年(延元年中)
斯波(足利)家長 神社奉建、萬亀山千鶴寺建立
1588年(天正16年)
南部信直 高水寺攻略700騎、本陣
1591年(天正19年)
蒲生氏郷 九戸政実の乱討伐軍、先人の将陣営

泰衡の首洗い井戸
泰衡の首洗い井戸
  泰衡の首洗い井戸
泰衡の首洗い井戸

<吾妻鏡−陣ヶ岡−泰衡の首>

1189年(文治5年) 9月3日
藤原泰衡は数千の軍兵に囲まれて、一時的に命をながらえようとして鼠のように隠れ、雛鳥のように退き、夷狄島を目指して糖部郡に赴いた。
この時に数代にわたる郎従である河田次郎を頼って肥内郡の贄柵(現秋田県大館市)に到ったところ、河田が突然長年のよしみを変え、郎従らに泰衡を囲ませ首を穫った。
河田はこの首を頼朝に献上しようと鞭を揚げて頼朝のもとに向かったという。
陸奥押領使藤原朝臣泰衡(年35)。
鎮守府将軍兼陸奥守秀衡の次男、母は前民部少輔藤原基成の娘。
文治3年10月、父の遺跡を継ぎ、出羽・陸奥押領使として六郡を支配。
  9月4日
頼朝は志波郡に到着された。
ところが泰衡と親しい比爪俊衡法師がこの事に驚き、同郡内の比爪館を焼きはらって逃亡し、奥の方に赴いたという。
そこでこれを追討しようと、三浦介義澄ならびに義連・義村らを遣わした。
今日、源頼朝は陣ヶ岡の蜂社に陣を敷かれた。
そこに北陸道追討使である比企能員・宇佐美実政らが出羽国の敵を討ち平らげて参上し合流したので、軍士は諸人の郎従らを加えて28万4千騎となった。
それぞれが白旗を打ち立て、おのおの弓に倚せ置いた。
秋の尾花が色を混じえ、晩の月が勢を添えていたという。
  9月6日
河田次郎が主人の藤原泰衡の首を持ち陣岡に参上し、梶原景時を通じて献上した。
和田義盛・畠山重忠に首実検させた上、囚人の赤田次郎を召して見せられたところ、泰衡の首であることに間違いないと申した。
そこでこの首を義盛に預けられた。
また景時に河田に仰せ含めさせて言った。
「汝の行為は、ひとまずは功があるように見えるが、泰衡を捕らえることはすでに我が掌中にあったのであり、他人の武略を借りる必要はなかった。それなのに譜第の恩を忘れて主人の首をさらした罪は、すでに八虐の罪にあたるもので、賞を与えることは難しいので、後人の戒めのためにも身の暇を与えよう」
そこで小山朝光に預け、斬罪に処されたという。
その後、泰衡の首が懸けられた。
康平5年9月、入道将軍家源頼義が安倍貞任の首を獲た時、横山野大夫経兼が承って、その門客である貞兼に首を受け取らせ、郎従の惟仲に首を懸けさせた。
(長さ八寸の鉄釘でこれを打ち付けたという)
この例にならって経兼の曽孫小椎守横山時広に命じられると、時広は子息時兼に景時の手から泰衡の首を受け取らせ、郎従惟仲の後胤である七太広綱を召し出して、首を懸けさせた。
(釘はその時の例に同じであったという)

堀
  陣ヶ岡蜂神社
陣ヶ岡蜂神社

陣ヶ岡

陣ヶ岡全景

<陣ヶ岡−紫波町指定史跡>

紫波町宮手字陣ヶ岡にあります。
高水寺城跡(城山)の西方約2kmのところにある丘陵で、標高は138m、比高13m、規模は東西360m、南北400mです。
「吾妻鏡」に記されている「蜂の社」で、周囲には幅2m・深さ1〜2mの濠跡が残っていて、昔の面影をとどめています。

ここは居館や城郭ではなく、戦略上の軍営地(陣所)として、前九年の役、頼朝の奥州攻め・南部信直の高水寺城攻めの三度陣所が置かれたところで、陣ヶ岡の呼び名もそれから出ています。

陣ヶ岡蜂神社
陣ヶ岡蜂神社
  陣ヶ岡蜂神社
陣ヶ岡蜂神社

<「月の輪形」の由来>

1062年(康平5年)9月
前九年の役に厨川柵の安倍貞任の軍勢を攻略するため源頼義・義家父子が3万2千の軍勢を率い、この地に宿営した。
この時、戦勝を祈願して、三日月堂の蜂神社を奉建したが、たまたま9月15日の月夜に源氏の日月の旗が古堤に映り、金色に輝いたという。
これを見た軍勢の士気は大いに鼓舞され将軍源頼義も「吉兆なり」と喜び池の中央に太陽と三日月の中島を造らせた。
1182年(寿永元年)
その後、平泉館の藤原秀衡が、一族にあたる頼義・義家父子の戦跡を偲んで蜂神社に参詣した。
その時、吉兆の古事を聞き、勿体なき偉業と感服し、この中島を修像させたと伝えられている。
この日月の像は「月の輪形」として伝え継がれ、幾星霜を経た今日においても、未だにその形をとどめている。

月の輪
月の輪
  月の輪
月の輪

陣ヶ岡

陣ヶ岡


源頼朝走湯権現

走湯神社 走湯[そうとう]神社
 
走湯神社

1189年(文治5年)9月11日
今日、(頼朝は)陣岡を発たれた。
今日まで7日間、ここに逗留された。
ところで高水寺の鎮守は(伊豆の)走湯権現を勧請したものであるが、その傍らにもまた小さな社があり大道祖といった。これは清衡が勧請したものである。
この社の後に大きな槻の木があった。二品(源頼朝)は、この木の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢の鏑二つを射立てられた。
ここから厨川柵までは二十五里の行程だった。
吾妻鏡より

走湯神社   <走湯神社>

二日町字向山172。
1189年(文治5年)源頼朝が勧請したもの。
境内社は諏訪神社、八坂神社、天満宮、八幡宮、道祖神、菊池稲荷社、合祀社は愛宕神社。
祭神は天忍穂耳命、本殿、幣殿、神楽殿、社務所、手水舎。
例祭8月27日。


伊達藩伊達吉村

常行堂・白山神社能舞台 常行堂・白山神社能舞台
 
常行堂・白山神社能舞台

<平泉−戦国大名葛西領から伊達領へ>

1590年(天正18年)7月
豊臣秀吉は小田原攻めを行い北条氏は滅亡した。
同月参陣した伊達政宗、南部信直、佐竹義重らとともに宇都宮城に入城し、ここで奥州任置を行った。
この時参戦しなかった葛西春信、大崎義隆は所領没収となった。
この事により葛西、大崎氏は反乱を起こし、葛西、大崎一揆となった。
豊臣政権は、蒲生氏卿、伊達政宗を鎮圧軍として派遣し一揆は平定された。
葛西、大崎領は伊達政宗の所領となり、平泉は正宗が管理するところとなった。
1732年(享保17年)
現在の常行堂は伊達藩5代藩主伊達吉村公の武軍長久を願って再建された。

1853年(嘉永6年)
白山神社能舞台は伊達藩によって再建されたもので近世の能舞台遺構としては東日本唯一のものとされ、日本の芸能上貴重な遺構として2003年に重要文化財に指定されている。


常行堂・白山神社能舞台


東下り
関連ホームページ紹介

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中尊寺大火災を今に伝える銘をもつ中尊寺梵鐘
奥州藤原氏略年表

平安時代
1050
永承5年
この年、安倍頼良、鬼切部で陸奥守藤原登任・秋田城介平繁成と戦い、勝利する
1051
永承6年
この年、源頼義、安倍頼良追討のため、陸奥守に任じられる【前九年合戦始まる】
1052
永承7年
安倍頼良、大赦により追討を逃れ、源頼義に服従、名を頼時と改める
1056
天喜4年
源頼義に安倍頼時追討の宣旨を下す(前九年合戦が本格化)
  藤原経清、安倍氏に加わる
1057
天喜5年
安倍頼時、討死。以後、安倍貞任ら抗戦。源頼義、黄海で安倍貞任らと戦い大敗
  末法思想の流行
1062
康平5年
この年、出羽山北の俘囚清原武則、頼義に協力する。厨川柵が陥落し、安倍貞任討死、安倍氏が滅亡する【前九年合戦終わる】
1063
康平6年
清原武則、安倍氏追討の功により、鎮守府将軍に任じられ、奥六郡の遺領を継ぐ
  この頃、『陸奥話記』成るか
1070
延久2年
この年、陸奥守源頼俊が陸奥の賊藤原基通らを討ち、衣會別嶋・閉伊七村の蝦夷を征討
1083
永保3年
陸奥守源義家、出羽の清原一族の争いに介入。清原家衡・清原(藤原)清衡ら、同族の真衡と争う。義家は真衡を援け、家衡・清衡と戦う【後三年合戦始まる】。真衡死し、奥六郡を家衡と清衡で折半する
1085
応徳2年
この年、清原家衡・武衡と清衡争う。源義家、清衡を支援する
  この冬、源義家、清原(藤原)清衡を援へ、清原家衡・武衡の沼柵を攻めるが敗北
1087
寛治元年
源義家、出羽国金沢柵に家衡・武衡を討つ【後三年合戦終わる】
1091
寛治5年
藤原清衡、関白藤原師実に駿馬2頭を贈る
1092
寛治6年
藤原清衡が挙兵を企てているとの陸奥国解を審議する
1098
承徳2年
成島毘沙門堂(旧東和町)の十一面観音像完成
1105
長治2年
藤原清衡、陸奥国平泉に最初院(中尊寺)を造立
  この年以前、藤原清衡、江刺郡豊田館より平泉に本拠を移す
1107
嘉承2年
この年、藤原清衡、平泉に大長寿院(二階大堂)を建立する
1117
永久5年
この頃、紺紙金銀字交書一切経の書写始まる
  毛越寺の大泉ヶ池をつくる
1120
保安元年
藤原清衡、摂関家領陸奥国小泉荘の年貢対捍の嫌疑を受けたが、冤罪と判明
1124
天治元年
中尊寺金色堂落成
1126
大治元年
藤原清衡、中尊寺大伽藍一区画の落慶供養を行う
1128
大治3年
藤原清衡、死去(73歳)
1129
大治4年
この年から翌年にかけ、藤原基衡、兄弟の惟常と戦う。毛越寺焼失す
1138
保延4年
藤原基衡、亡父清衡のために金字法華経の書写を始める
1153
仁平3年
摂関家領陸奥国本良・高鞍荘など五ヶ荘の年貢増徴問題について、左大臣藤原頼長と藤原基衡との間に交渉が行われる
1157
保元2年
この頃、藤原基衡死去
1170
嘉応2年
藤原秀衡、鎮守府将軍に任命される
1174
承安4年
この年、源義経、陸奥国に向かう
1175
安元元年
源義経、平泉にて藤原秀衡の保護を受ける
1176
安元2年
藤原秀衡、亡父基衡のために紺紙金銀字一切経を書写
1181
養和元年
藤原秀衡、陸奥守に任命される
1186
文治2年
これ以前、源頼朝、藤原秀衡に書状を送り、朝廷への貢馬・貢金は頼朝が伝進すると告げる。西行法師、秀衡を訪ねる
1187
文治3年
源義経、陸奥国の藤原秀衡のもとへ逃れる。藤原秀衡、死去(67歳)
1188
文治4年
藤原基成・藤原泰衡に宣旨を下し、源義経追討を命じる
1189
文治5年
源頼朝、藤原泰衡に義経の誅伐を命じる。源義経、泰衡に襲われ、衣川館で自害。源頼朝、奥州藤原氏追討のため鎌倉を発向【文治五年奥州合戦始まる】。伊達郡阿津賀志山合戦で藤原氏方敗北、藤原国衡戦死。源頼朝、平泉を占領。泰衡、郎従河田次郎に討たれる。頼朝の軍勢、志和郡陣岡蜂社で北陸道の部隊と合流。頼朝、岩手郡厨川に赴く。工藤行光を岩手郡の地頭に任命する。頼朝、胆沢郡鎮守府八幡に奉幣。葛西清重を陸奥国御家人の奉行(奥州総奉行)に任命する
1190
建久元年
平泉の旧臣大河兼任の乱鎮圧。伊沢家景、陸奥国留守職に任命される



鎌倉時代
1195
建久6年
源頼朝、葛西清重・伊沢家景に平泉の堂塔復旧を命じる
1200
正治2年
幕府、陸奥出羽諸郡郷の所務は平泉以来の旧例に従うべきことを命ずる
1223
貞応2年
この年、承久の乱によって奥州江刺に配流された河野通信、国見山極楽寺で死去(その墳墓が聖塚)
1226
嘉禄2年
平泉毛越寺金堂円隆寺ほか主要伽藍焼失
1256
康元元年
この年、一関市川崎町門崎の最明寺境内に「建長八年丙辰二月廿七日」とある石塔婆(建長の碑)が建立される。岩手県紀年銘古碑の最古のもの
1280
弘安3年
この年、一遍、祖父河野通信の墓(聖塚)に詣でる
1288
正応元年
葛西氏と中尊寺の間に山野をめぐる相論がおき、中尊寺が鎌倉に訴え出る
  平泉寺院の堂塔修理が始まり、初冬に金色堂の覆堂が竣工する

室町時代南北朝
1337
建武4年
金色堂と経蔵のみ残し、中尊寺焼失す


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