斯波氏と高水寺城(上)
室町の名門 足利
1191年(建久2年)、泰衡の家臣 大河兼任が反乱を起こすと、源頼朝は足利義兼等に反乱追討を命じました。
足利義兼はこの大河兼任の乱を鎮定すると、この恩賞により斯波郡を与えられました。その後、義兼の曽孫 足利家氏は斯波郡の地名を名字として「斯波氏」を名乗りました。以後、家氏-宗家-家貞-高経-家長と続きました。
1335年(建武2年)、斯波家長は足利尊氏によって奥州管領に任ぜられ斯波郡に下向、高水寺に依り、多賀国府の南朝軍陸奥守北畠顕家と対抗しました。
室町時代に入ると、北上川河東の川村氏を従属させ、さらに雫石郷、太田郷、大釜郷を占領、雫石には二男詮貞、太田猪去には三男詮義、大釜郷には多田氏を配し66郷を領しました。
1549年(天文18年)頃より三戸南部氏が南下政策を開始、一進一退の攻防でしたが、1588年(天正16年8月)、三戸、南部信直の総攻撃を受けて滅亡しました。斯波氏は足利将軍家につながる名門で同族の京都斯波氏は三管領の1つとして幕政に参与しました。
鎌倉時代 <足利義兼、奥州合戦に二度参戦す>
足利義兼は、源頼朝の奥州藤原氏攻めに参戦した。足利義兼は頼朝の従兄弟で、義兼の妻は頼朝の妻政子の妹である。
□1190年(建久元年)
大河兼任の乱起こる。泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とする。
□1191年(建久2年)
頼朝、大河兼任討伐軍を編成。 東海道大将軍、千葉介常胤、東山道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る。この時、義兼勝利の論功行賞により斯波郡を拝領す。
□1243年(寛元元年)
義兼の曽孫、足利家氏は斯波郡高水寺に着任し、斯波家氏を名乗る。これが足利氏が斯波氏を名乗る最初である。家氏は泰氏の長男であったが弟の頼氏が足利宗家を継いだ。これは頼氏の母は北条一門の名越氏出身であったためである。以後家氏→宗家→家貞と続く。
□1333年(正慶2年)
足利尊氏、幕府軍を率いて上洛。幕府に反旗をひるがえし六波羅探題を滅亡させる。同年新田義貞も挙兵し鎌倉に進軍し鎌倉幕府を滅亡させた。


文治5年の奥州合戦で勝利した鎌倉武士のなかで最大の論功行賞を受けたのは、武蔵の国の葛西清重で、奥州奉行に任じられました。現在の岩手県南部から宮城県北東部に至る広大な土地を与えられました。
岩手郡は工藤氏。
足利氏は斯波郡と宮城県加美郡(現宮城県大崎市)の2ヶ所が与えられ、鎌倉時代の初期から入部していました。
稗貫、和賀郡には中条氏(稗貫、和賀氏)。
閉伊郡の閉伊氏は近江国(現滋賀県)の佐々木氏の一族で早くから北条氏に属していました。
糖部郡(現岩手県二戸郡と青森県)は北条得宗領でした。
鎌倉時代の中頃から北条得宗家の権力が強まるにつれて、各地の地頭たちは北条家への家臣となるものが多くなり、地頭職も北条氏へと移行していきました。
また北条氏直属の被官として津軽安藤氏と閉伊佐々木氏がおり、津軽安藤氏は北条氏御内人で蝦夷管領として北方交易や日本海交易に強大な力がありました。
この段階では糖部郡は北条得宗領であり、南部氏の所領は見あたりません。
南北朝時代 <北朝軍-奥州管領>
建武の中興。
後醍醐帝、北畠顕家を陸奥守として奥州多賀国府に派遣。南部師行、糖部郡代となり八戸根城を築城。
□1335年(建武2年)
足利尊氏、弟家長を陸奥守(奥州管領兼奥州大将軍)として斯波郡高水寺に下向させ、高水寺城を築城させる。
□1336年(建武3年)
南朝、義良親王を陸奥大守、顕家を鎮守府将軍に任命。同年、北朝尊氏、家貞の子家兼を陸奥国探題に任命。家兼、斯波氏を名乗り岩手沢城(現宮城県大崎市岩出山城)を築城。のち大崎氏を名乗る。
□1337年(延元2年)
斯波家長郡、鎌倉で顕家軍と戦い、家長敗れて、杉本観音堂で自殺、17才であった。
□1338年(延元3年)
北畠顕家、大坂和泉石津の戦いに敗れて討死する。北畠親房、後任に次男顕信を陸奥介鎮守大将軍に任命す。
□1340年(興国元年)
北畠顕信、吉野朝から奥州に出陣し、石巻の日和山に将軍府を置く。
□1341年(興国2年)
将軍顕信、八戸南部政長、滴石の戸沢、和賀、河村氏に対し北朝軍(斯波氏)を対治指令し、厨川合戦を発動す。厨川城攻撃を受け南朝優勢。
□1345年(興国6年)
将軍顕信、南出羽より滴石に出陣。
□1346年(正平元年)
将軍顕信、滴石に滴石御所を開設。(現つなぎ温泉か?)
□1350年(正平5年)
上田城合戦を指揮、(現盛岡市)南朝勝利。
□1351年(正平6年)
将軍顕信、滴石御所より出陣し、府中奪回作戦、府中の占拠に成功。
□1352年(正平7年)
北朝、斯波、大崎氏、府中を攻撃、顕信敗れて滴石御所より福島県宇津峰城に移る。これにより南朝の力が弱まる。
□1392年(明徳3年)
南北両朝合体す。

岩出山城



岩出山有備館

室町時代
建武の中興以来一貫して南朝軍であった大巻館の河村秀基が斯波氏に仕えることになった。
□1411年(応永18年)
南部守行陸奥国司に任ぜられる。
□1492年(明応元年)
陸前国の大崎(斯波)教兼が斯波郡の地頭職となる。
□1495年(明応4年)
大崎教兼の子詮高、高水寺城に住む。
□1521年(大永元年)
糖部南部氏と和賀氏、斯波の郡山で合戦す。
□1537年(天文6年)
斯波の郡山において和賀義方と南部晴政の両勢衝突、和賀方敗退する。
□1540年(天文9年)
南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏敗れて角館に敗走す。滴石は南部領となる。
□1545年(天文14年)
斯波氏は岩手郡太田(現盛岡市太田)、南部滴石城を攻略。南部晴政軍敗れて三戸に敗走す。同年斯波氏滴石城を雫石城(雫石御所)に改め、詮高の二男詮貞を城主とし雫石詮貞を名乗る。また太田にも三男詮義を猪去館(猪去御所)に配置した。これにより斯波氏、66郷を領す
□1549年(天文18年)
斯波領農民と南部領農民の間に論争があり、斯波方は南部領に侵入。その結果、雫石川下流は斯波領となった。この後、斯波氏と南部氏の戦いが繰り返されたが勝負はつかず、侵略した土地は南部方へ返還することで和解した。
□1571年(元亀2年)
斯波領農民と南部領農民との間にまた紛争が起きる。
□1572年(元亀3年)
紛争が原因で、合戦が起こった。斯波方が破れて、見前郷を失った。
安土・桃山時代 <滅亡への道>
斯波氏は南部氏の支族九戸政実の弟、弥五郎を娘婿に迎え、知行地として高田村を与えた。弥五郎は高田吉兵衛と改名し高水寺城の一郭に居住した。
□1583年(天正11年)
南部信直、斯波の大萱生氏を攻撃す。
□1586年(天正14年)
高田吉兵衛は斯波氏との間が不和となり、身の危険を察し斯波方を脱出し、三戸南部に逃げ帰った。同年高田吉兵衛を南部氏に帰属させて、岩手郡中野館に入れる。斯波軍、岩手郡に進攻したが撃退される。南部信直、斯波雫石城を攻略。斯波雫石氏高水寺城に敗走す。
□1588年(天正16年2月)
15代将軍足利義昭、征夷大将軍位を辞す。これにより斯波氏は急激に衰退す。
□1588年(天正16年8月)
南部信直、大軍をもって斯波高水寺城を攻略。斯波詮直は山王海に走り斯波氏滅亡す。斯波氏は、家長から詮直まで約250年間、斯波郡を支配したが南部領に組み込まれていった。この年南部信直は斯波を志和に改名す。