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盛岡ヒストリー(安土・桃山~江戸時代)

「盛岡」の地名の伝承

『盛岡砂子』には、盛岡の地名の伝承について、つぎのような話が書かれている。
まず、築城の初めのとき、御鍬立ての御祝儀にお酒盛りがあった。そのとき利直公は、「この城を不来方こずかたというは、心悪しき文字なり。森ヶ岡もりがおかと号すべし」と仰せられた。そののち、いつのころからか、”ヶ”の字を除いて、森岡もりおかと唱えるようになった。
ところが、山岸の永福寺の後の方に小高い岡があって、これを昔から”盛岡”といった。それで永福寺は、この地に拠って「宝珠盛岡山」という山号にした。元禄4年(1691)のこと、永福寺の住持の僧が、藩主重信公のところへ「宝の珠の盛る岡山」という下の句をもってきて、上の句をつけてほしいと望んだ。そのとき重信公は、「幾春も花の恵みの露やこれ」という上の句をつけられた。
この重信公の御連歌があってから、”森”の字を”盛”の字に改められて、「盛岡」と称するようになったということである。
盛岡の歴史(上)より
 



 

<斯波氏滅亡から森岡城下町完成(寛永10年)までの年表>


□ 1588年(天正16年7月)
南部信直、700の兵を率いて志和郡高水城を攻略し、斯波氏滅亡す。
□ 1590年(天正18年)
○ 大浦為信、離反して津軽独立す。
○ 7月18日南部信直、秀吉小田原攻めに参陣し豊臣秀吉より南部内七郡の本領安堵の朱印状を得る。
○ 豊臣秀吉により奥州仕置始まる。
仕置反対一揆、葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆起こる。
南部信直、和賀・稗貫一揆を鎮定。
伊達政宗、葛西・大崎一揆を鎮定するが大崎では6,000人を撫で斬にする。
□ 1591年(天正19年)
○ 九戸政実、二戸郡宮野城(九戸城)に反す。
奥州仕置軍下向して6万の兵で包囲し、政実以下を討滅させる。
○ このとき津軽の代地として、和賀、稗貫、志和の三郡を与えられて南部領10郡となる。
□ 1592年(文禄元年)
○ 浅野長政の勧めで不来方を居城と定める。
○ 文禄の役起こる。
南部信直、朝鮮出兵のため50の兵を率いて九州名護屋城(唐津)に向かう。
○ 南部領内の諸城を破却する。
□ 1597年(慶長2年)
森岡城築城始まる。総奉行南部利直。
加賀前田の家臣、内堀四郎兵衛を顧向として迎える。
□ 1598年(慶長3年)
○ 森岡城築城の認可下る。
○ 文禄の役終わる。
○ 豊臣秀吉没す。
○ 12月、南部信直、京都伏見、南部屋敷より三戸に戻る。
このとき京都公家商人4名と銅の飾り職人3名を伴う。



 

□ 1599年(慶長4年)
○ 鎌津田甚六、鹿妻穴堰開削始まる。
○ 9月信直、福岡城にて没す。世子利直継ぐ。
□ 1600年(慶長5年)
○ この年早々、会津の上杉景勝、直江兼続が石田三成と結んで兵を挙げ、山形の最上義光を攻めた。
○ 関ヶ原の戦。
徳川家康は上杉討伐のため、近国の諸大名に最上氏の救援を命じた。
また伊達政宗より横手の小野寺が上杉に身方しているので横手を攻めるよう命じてきた。利直は、兵4300で横手、山形に出陣し横手小野寺を包囲した。
すると和賀の和賀忠親は、伊達政宗の援助を受けて乱を起こし二子城に拠って花巻城を攻めた。花巻城は援軍を得て、和賀忠親は岩崎城に走った。
□ 1601年(慶長6年)
○ 3月利直は兵4500を率いて岩崎城を討伐、和賀忠親敗れて伊達領に走る。
○ 報恩寺、三戸より森岡、現在地に移転される。
□ 1602年(慶長7年)
○ 伊達政宗、江刺・気仙の2郡と和賀郡を交換するよう申し出てきたが、利直、これを断る。
○ 志和郡僧ヶ沢金山開発。北十左衛門、白根金山開発。
□ 1603年(慶長8年)
繋の湯守安楽院、手作り、8斗4升6合6勺を与えられる。
□ 1604年(慶長9年)
奥州街道に一里塚を築き、榎を植える。
□ 1608年(慶長13年)
森岡城完成し、城下町、京町、鋼屋町、大工町の町並み一応できあがる。
□ 1609年(慶長14年)
中津川上の橋に青銅擬宝珠を付ける。
□ 1611年(慶長16年)
中津川中の橋に青銅擬宝珠を付ける。



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