1. HOME
  2. ブログ
  3. 盛岡ヒストリー 社寺仏閣 榊山稲荷 報恩寺 八幡宮 桜山神社

盛岡ヒストリー 社寺仏閣 榊山稲荷 報恩寺 八幡宮 桜山神社

盛岡の寺院と神社

寺院
盛岡の寺院は盛岡城築城と城下町の造成にともなって、旧領地三戸から移転された寺院、新領地志和、稗貫から移転された寺院とこれらの末寺として建立されたものが多い。
築城以前からあったものとして福士氏の菩提所東顕寺、厨川工藤氏の菩提所天昌寺、鵜飼にあった材木町永祥院などである。

神社
神社の建立も新しく盛岡城築城後のものがほとんどである。
築城以前の神社として、坂上田村麻呂の創建と伝えられる本宮の大宮神社、厨川の栗谷川八幡宮、繋の温泉薬師社など。
中世になると工藤小次郎建立と伝えられる栗谷川稲荷社。
福士氏が建立したと伝えられる米内薬師社、大豆門権現社、繋の高橋氏建立の藤原神社などがある。
 

安土桃山~江戸時代

 
榊山稲荷大明神
榊山稲荷
榊山稲荷

 

<榊山稲荷神社の歴史>


榊山稲荷神社は盛岡市北山に聖寿禅寺と並んでいます。

□ 1597年(慶長2年)
盛岡城の本丸西側の曲輪に創建され、榊山曲輪の名を残している。
□ 1868年(明治元年)
戊辰戦争により盛岡城は廃城となり、同時に榊山稲荷神社も廃社となった。
□ 1897年(明治30年)
廃社となった榊山稲荷神社を鉈屋町の荒川清次郎氏が、旧藩主南部氏の所有であった現北山の土地を譲り受け、私財を投げ打って再興したものである。
 
榊山稲荷
榊山稲荷

 

<緑風苑>


榊山稲荷神社には緑風苑という日本庭園があります。
これは対馬藩士で朝鮮通信使をめぐる国書改ざんの罪により南部藩に配流された方長老の屋敷跡の庭園です。
神社再興時に荒川氏と近くの庭師中舘福松氏がよみがえらせたものといいます。
 
榊山稲荷

報恩寺
報恩寺五百羅漢
報恩寺

 

<盛岡報恩寺> ~寺歴と沿革~


□ 1394年(応永元年)
山を「瑞鳩峰山」と号し、寺を「報恩禅寺」と称するこの寺は、南部家13代の英主守行公によって三戸の八幡山下に創建された。
□ 1601年(慶長6年)
南部27代利直公のとき現在地に移転された。
創建以来600年、移転以来400年の寺歴を有する。
寺域7千坪、朱寺30カ寺、藩政時代には寺領200石、南部領内曹洞宗208カ寺の総録であった。
現在は、最近まで禅修行の専門僧堂として知られ、1300戸の檀信従の菩提寺であり、地域の参禅道場ともなっている。
 
報恩寺
報恩寺

 

<五百羅漢> ~盛岡市指定文化財~


□ 1734年(享保19年)
報恩寺の第17世曇樹-華和尚の持志によって木造の五百羅漢像がつくられた。
この五百羅漢は木彫で、京都の大仏師法橋宗而重賢・駒野定英・同丹下定孝ら9人の匠の作。
造像は1731年(享保16年)から同19年にいたる約4カ年の歳月を費やして出来たものである。
この京都で作られた羅漢像は海路、そして北上川を舟で遡り城下新山河岸に揚陸された。
尊像は一体一体信者に捧持されて、大行列で報恩寺に運ばれたのであった。
 
報恩寺
報恩寺

開館時間 9:00~16:00
TEL 019-651-4415(報恩寺)
所在地 岩手県盛岡市名須川町31-15
アクセス 盛岡駅前バス乗り場より11番線 松園ニュータウン行(本町通・洞清水経由)
またはでんでんむし号本町通一丁目下車徒歩15分

 
報恩寺

盛岡八幡宮
盛岡八幡宮
盛岡八幡宮

 

<盛岡八幡宮> ~南部盛岡藩の総鎮~


東奥の鎮護、盛岡藩の総鎮守である鳩森八幡は盛岡城内三ノ丸鳩森曲輪に所在しました。
これが現在の盛岡八幡宮のルーツです。
来歴不詳。
築城のとき仮堂を普請、築城が成就し御社を再建しました。
城内三社のひとつです。
 
盛岡八幡宮

 

<社歴と沿革>


□ 1671年(寛文11年)
三代藩主重信の世子行信の発願で、盛岡城内の鳩森八幡を城東中野の現在地に御旅所の社地および馬場を造成した。
□ 1679年(延宝7年)
社堂を建立して神輿渡御の儀がはじまり、領民の参拝を許して盛岡第一の大祭となった。
□ 1681年(延宝9年)
はじめて流鏑馬(ヤブサメ)を行った。
□ 1709年(宝永6年)
盛岡城下二十三町内から山車(ダシ)が繰り出されている。
 
盛岡八幡宮
盛岡八幡宮

 

<祭礼>


盛岡秋まつり「山車」
毎年 9月14~16日 3日間

はんてん姿の粋な若衆連にひかれて、華麗に彩られた英雄豪傑たちの山車が大八車の音きしませて街中を練り歩きます。
約三百年の伝統が息づいているこの祭りは、県下一の賑わいを見せています。
 
盛岡八幡宮

桜山神社
桜山神社
桜山神社

 

<桜山神社の由来>


盛岡藩の開祖・南部信直公の150年忌にあたり、藩主利視公が寛延2年(1749)9月26日、信直公の神霊を「淡路丸大明神」として、城内腰曲輪の東側の地に祀りました。

 
桜山神社
桜山神社
 
桜山神社

 

<桜山神社の神霊と移設>


□ 1812年(文化9年)
桜山神社と改称する。
□ 1818年(文化15年)
元祖光行公も神霊とする。
□ 1912年(大正元年)
利直公と利敬公の神霊を合祀して、盛岡の守護神とする。

明治維新の盛岡城解体に際し、城内淡路丸の桜山神社を一時加賀野の妙泉寺山に移しました。
□ 1875年(明治8年)
加賀野妙泉寺より北山聖寿寺跡へ遷座させる。
□ 1881年(明治14年)
桜山神社が県社に列せられる。
□ 1900年(明治33年)
内丸の現在地に遷座する。桜山神社が北山の聖寿寺境内に鎮座していたことから、その旧地を「旧桜山」と呼ぶようになった。
 
桜山神社
桜山神社
 
桜山神社






盛岡略年表
 
縄文・弥生・大和時代
B.C.6000~


奈良時代
749 勝宝元年
奥州から初めて黄金を献じた
770 宝亀元年
坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍とする
789 延暦8年
紀古佐美征討将軍、胆沢の地を大軍で攻めたが大敗
794 延暦13年
坂上田村麻呂を征夷副将軍に命じ胆沢の蝦夷を征す
797 延暦16年
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ず

平安時代
802 延暦21年
坂上田村麻呂、胆沢城を築く
803 延暦22年
坂上田村麻呂、志波城を築く。この年、征夷大将軍を辞職する
804 延暦23年
田村麻呂を征夷大将軍に再任する
811 弘仁2年
和我、稗縫、斯波の三郡建置。同年文室綿麻呂を征夷将軍に任ず
813 弘仁4年
徳丹城が設置される
1051 永承6年
安倍頼良そむき、源頼義を陸奥守に任じて追討す
1056 天喜4年
前九年の役おこる
1062 慶平5年
前九年の役おわる。源頼義、厨川柵にて安倍貞任、藤原経清を斬る
1081 永保元年
源義家、陸奥守に任命される
1083 永保3年
藤原清衡に伊沢・江刺・和賀、藤原家衡に稗貫・志波・岩手郡を分領させる。後三年の役はじまる
1087 寛治元年
源義家、金沢柵陥落し、清原氏滅亡する。後三年の役おわる
1089 寛治3年
藤原清衡、陸奥押領使となり、伊沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡を領し、江刺郡豊田館に居住す
1124 天治元年
藤原清衡、中尊寺金色堂を建立す
1126 大治元年
清衡、中尊寺金堂・三重塔などを建立す
1156 保元元年
保元の乱
1170 嘉応2年
藤原秀衡、鎮守将軍となる
1175 安元元年
藤原俊衡、樋瓜館に住む
1184 寿永3年
平兼盛、磐手郡滴石戸沢に移り住む
1187 文治3年
藤原秀衡、死去
1189 文治5年
奥州合戦、源頼朝、藤原泰衡を攻める。伊達郡阿津賀志山の合戦で、三沢安藤四郎の兵略によって奥州軍敗走。河田次郎の裏切りにより泰衡討たれる。葛西清重、頼朝より陸奥国御家人の奉行を命じられる。また津軽には宇佐美平次実政を惣地頭として派遣。頼朝、鎌倉へ帰途。工藤小次郎行光に岩手郡を与える
1190 建久元年
大川兼任の乱、泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とす
1192 建久2年
頼朝、東海道大将軍、千葉介常胤、東海道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る

鎌倉時代
1268 文永5年
足利尾張守家氏。斯波郡に下向。高水寺に在城す
1333 元弘3年
南部信長、岩手郡厨川の工藤氏を攻めて降す
1334 建武元年
北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷を給す

室町時代南北朝
1334 建武元年
建武の中興 鎮守府将軍北畠顕家、奥州津軽に下向。南部師行を郡代として八戸根城を築城。また子、顕成に津軽浪岡を所領として与える
1335 建武2年
足利尊氏、斯波家長を奥州管領として高水寺城に下向させる
1336 建武3年
十三湊安藤師季、八戸根城を攻撃
1338 延元3年
北畠顕家、南部師行、大阪、和泉、石津において戦死。十三湊、大津波に襲われる。藤崎城主安藤秀光、大光寺に入り大光寺氏を名乗る
1341 興国2年
北畠顕信、将軍となり、厨川合戦を発動す。この年顕信、滴石御所を開く。安藤師秀、八戸南部政長の勧誘に応じ南朝方となる
1392 明徳3年
南北両朝合体す

室町時代
1411 応永18年
三戸南部守行、秋田湊の安藤鹿季と出羽仙北に戦う
1418 応永25年
「関東大名南部」上洛。将軍義持に馬100頭・金1,000両を献上す。この後「本八戸城」築城か?
1423 応永30年
安藤陸奥守、新将軍義量就任の賀として馬20頭・鳥5,000羽・銭2万疋・海虎(ラッコ)の皮30枚・昆布500把を献上
1432 永享4年
十三湊、安藤盛季、康季南部守行に敗れ、蝦夷ヶ島に敗走。幕府、調停に乗りだす
1436 永享8年
八戸糖部南部、斯波で和賀氏と合戦す
1443 嘉吉3年
津軽十三湊、安藤義季、三戸南部義政に敗れ蝦夷地に敗走す
1445 文安2年
安藤義季、津軽西浜に上陸
1453 享徳2年
安藤義季、南部氏に敗れ自害
1454 享徳3年
湊安東政季、南部氏に敗れて函館に敗走す
1456 康正2年
安東政季、秋田に上陸し檜山城を築く
1467 応仁元年
浪岡北畠顕義、浪岡城築城
1470 文明2年
安東師季、津軽回復を目指し藤崎館を攻めるが成功せず
1491 延徳3年
南部久慈光信、津軽西浜種里城に入る
1492 明応元年
陸前国の大崎教兼が斯波郡の地頭職となる
1495 明応4年
大崎教兼の子、詮高、高水寺城に住む
1498 明応7年
南部光康、横内城(現青森市)を築城す
1502 文亀2年
南部久慈光信、大浦城を築き、嫡男盛信を置く
1521 大永元年
糠部南部氏と和賀氏、斯波郡の郡山で合戦す
1524 大永3年
三戸南部安信、津軽地方を平定す
1533 天文2年
南部安信の弟高信、津軽の反乱を鎮圧する。高信は津軽郡代に任じられ、石川城(後弘前城)に拠る
1537 天文6年
三戸南部氏、南部晴政、斯波の郡山で和賀氏と合戦、和賀氏敗退す
1539 天文8年
南部彦三郎安政、上洛、将軍義晴より偏諱をうけ晴政と改名
1540 天文9年
南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏新庄に敗走す
1545 天文14年
斯波氏、南部滴石城を攻略、三戸南部晴政軍敗れて三戸に退く
1562 永禄5年
檜山安東愛季、比内長岡城を攻め浅利則祐を自害させる
1567 永禄10年
大浦為信、義父為則の跡を継ぎ大浦城主となる
1569 永禄12年
安東愛季の軍勢、南部領鹿角郡に侵攻。南部石川高信これを破る
1571 元亀2年
大浦為信、石川城を攻略、石川高信、自害す
1572 元亀3年
斯波氏、南部晴政軍に敗れ、見前郷を失う。斯波氏、九戸政実の弟、弥五郎(高田吉兵衛)を女婿に迎える

安土・桃山時代
1578 天正6年
大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる
1579 天正7年
安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開
1582 天正10年
南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする
1583 天正11年
安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合
1585 天正13年
大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗
1586 天正14年
南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ
1588 天正16年
三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡
1589 天正17年
湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる
1590 天正18年
南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏
1591 天正19年
九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める
1592 文禄元年
南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる
1594 文禄3年
南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す
1597 慶長2年
盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる
1598 慶長3年
南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡
1599 慶長4年
南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる
1600 慶長5年
家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣
1601 慶長6年
利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡)
1602 慶長7年
鹿角白根金山が発見される

江戸時代
1614 慶長19年
利直、大阪冬の陣に出陣
1615 元和元年
大阪夏の陣おこる
1625 寛永元年
三戸旧城下の町民を盛岡に移す
1632 寛永9年
南部利直が江戸桜田邸で逝去す
1633 寛永10年
南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める




関連記事