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盛岡ヒストリー 先人

廃藩置県 盛岡藩から盛岡県へ

明治元年当時の盛岡の人口は30,000人程度と推定されています。
明治4年、廃藩置県が行われ、盛岡藩20万石は、盛岡県、花巻県、三戸県の3つに 分割され、
盛岡県は岩手郡84ヵ村、紫波郡70ヵ村、稗貫41ヵ村、閉伊郡72ヵ村、 九戸郡11ヵ村、鹿角郡69ヵ村の347ヵ村となりました。

盛岡県から岩手県へ 明治5年1月(1872)、盛岡県は岩手県に改められました。
その後明治9年(1876)、旧伊達領のうち、磐井郡が岩手県に編入。

同年、気仙郡と三戸県は青森県になりましたが、三戸県のうち二戸郡が岩手県に 編入され、今日の岩手県となっています。
 

明治

 
盛岡市先人記念館

 

盛岡市先人記念館


明治期以降に活躍した盛岡ゆかりの先人130人を紹介。
新渡戸稲造、米内光政、金田一京助、原敬、大島高任、鹿島精一など、政治、経済、文化など各分野で活躍した盛岡ゆかりの先人たちの資料が展示されており、 それぞれの業績を知ることができます。

TEL 019-659-3338
所在地 岩手県盛岡市本宮字蛇屋敷2-2

金田一京助
金田一京助
 
盛岡市名誉市民第一号
1882~1971(明治15~昭和46)
盛岡市四ツ家町に生まれる。
言語学者。
東京帝大文科大学卒業後、三省堂編輯室に入り、『明解国語辞典』『辞海』などを編纂・監修。
また消滅寸前にあったアイヌ民族のユーカラを採録、解明して『アイヌ叙事詩ユーカラ全集』を刊行。
友人・石川啄木に関する著書も多い

米内光政
米内光政
 
日本の運命を救った海軍大臣
1880~1948(明治13~昭和23)
盛岡市下小路に生まれる。
軍人。
連合艦隊司令長官などを経て海軍大将、海軍大臣、内閣総理大臣を歴任。
日本海軍を侵攻用ではなく防衛用と考える米内は不動平和の信念を貫き通し、昭和20年8月、太平洋戦争の終局時には帝国海軍葬送の司祭も見事に遂行した。

新渡戸稲造
新渡戸稲造
 
太平洋のかけ橋となった国際人
1862~1933(文久2~昭和8)
教育者・農学者・思想家。
明治4年、10歳で上京。
本郷の旧盛岡藩校、東京外国語学校、札幌農学校卒業後、ドイツ、米国に留学。
帰国後は京大教授、一高校長などを歴任し、若き逸材を輩出した。
国際平和を主張し、国際連盟事務局次長、太平洋問題調査会理事長として活躍した。

小岩井農場
小岩井農場
小岩井農場

 

小岩井農場


■1890年(明治23年) 東北本線 上野~盛岡間全面開通する

■1891年(明治24年) 小岩井農場開設

東北本線が開通した次の年、小野義真(日本鉄道会社副社長)、岩崎弥之助(三菱社社主)、
井上勝(鉄道庁長官)の3人は、岩手山の裾野を広大に買い込み、3人の頭文字を取り「小岩井農場」としてひと儲けを企みました。
農場の経営は経営能力がある岩崎があたりました。

しかし当時小岩井農場は、火山灰、酸性土壌で西風が強く、草木が1本も生えない不毛の痩せ土地でした。
10数年を要して土壌の改良に努め、やっとのことで防風、防雪林の植林にこぎ着けました。
植林は西側に針葉樹を植え、その後ろに広葉樹を植え育てるという小岩井農場独特の方法でした。
これを見ていた宮沢賢治は「小岩井農場の奇跡」といっています。

■1899年(明治32年) 小岩井農場は100%岩崎家の所有となった
 
小岩井農場

旧盛岡高等農林学校
旧盛岡高等農林学校
旧盛岡高等農林学校

 

盛岡高等農林学校


日清戦争後、国内の産業発展とともに専門教育の必要が叫ばれ、その要請にこたえ「実業学校令」が明治32年(1899)に公布され、全国に工業、農業、商業の専門学校が置かれることとなり、同35年(1902)に、官市盛岡高等農林学校が設置されました。

設置理由は「農業・林業及獣医に必要なる高等教育を施すところ」として、技術開発の必要から、農業、農芸、林業に関する高等教育を授けるためでした。
農業専門学校は、当時北海道と東京の2校のみでした。
初代校長玉利喜造は東京帝国大学出身で、他に教授3人、助教授3人、書記4人でした。

修業年限は3年で、17才以上の試験合格者を入学させました。
最初の入学志願者は236名で農学科・林学科の各30名・獣医学科24名の84名を選考し入学させました。

その後大正2年(1913)に農芸化学科をふやしています。
卒業生は、やがて岩手県の近代農業経営に大いに貢献することとなりました。
 
旧盛岡高等農林学校

 

農業教育資料館


農業教育資料館は、1902年(明治35年)にわが国最初の高等農林学校として設置された盛岡高等農林学校の本館として、1912年(明治45年)5月に着工し、同年(大正元年)11月に完成しました。

この建物は青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造二階建ての欧風建築で、校舎をつなぐ渡り廊下が付属し、当時、一階に校長室、事務室、会議室など、二階に大講堂があり、諸行事に使われていました。

その後、学制改革によって岩手大学が設置されてからは大学本部として1974年(昭和49年)まで使用されました。

老朽化が激しくなったこともあり、一時は取り壊しも検討されましたが、歴史的建造物の修復保存の声があがり、修復された後の1978年(昭和53年)に農学部付属農業教育資料館として再活用されることとなりました。

1994年(平成6年)7月12日に国の重要文化財(建造物)の指定を受け、今日に至っています。

館内には、盛岡高等農林学校創立以来の農学教育や研究に関する資料、宮澤賢治在学中の資料の一部が展示・公開されています。
 
旧盛岡高等農林学校
旧盛岡高等農林学校

 

岩手大学ミュージアム本館


岩手大学ミュージアム本館は、盛岡高等農林学校時代に図書館の一部として使用されていた建物で、宮澤賢治も在学中に生物学、鉱物学、文学、芸術などを学んだ場所でもあります。
その後、緑化センター、放送大学岩手学習センターとして利用されてきましたが、2003年(平成15年)10月10日、岩手大学での研究成果や研究資料を展示・保管・公開するための岩手大学ミュージアム本館として新たに生まれ変わりました。

本館では、岩手大学開学以来100年間にわたる研究成果の一部として、県内の縄文・奈良・平安時代遺跡に関わる研究成果や、岩手県地方に関する史料編纂事業の関係資料(人文社会科学部・教育学部)、北上川、リモートセンシング鋳造に関する研究(工学部)、家畜疾病防遏や寒冷地農業に関する研究(農学部)などを展示・公開しております。
また、大学が保有する貴重な資料に関しては随時、期間を限定した企画展示を行っております。

なお、ボランティアによる解説を行っておりますので、必要な方は受付に申し出てください。
 
旧盛岡高等農林学校
 
旧盛岡高等農林学校
旧盛岡高等農林学校

 

岩手大学ミュージアム本館 展示・公開している施設


〒020-8550 岩手県盛岡市上田三丁目18番8号

岩手大学ミュージアム本館
ホームページ http://www.museum.iwate-u.ac.jp/honkan/honkan.html

農業教育資料館
ホームページ http://news7a1.atm.iwate-u.ac.jp/edu/

動物の病気標本室
ホームページ http://muvetmed.agr.iwate-u.ac.jp/


 
旧盛岡高等農林学校
旧盛岡高等農林学校
 
旧盛岡高等農林学校

石川啄木
関連施設「石川啄木記念館」
石川啄木記念館

 

石川啄木


明治時代の歌人・詩人・評論家。本名は石川一(はじめ)。
代表作「一握の砂」「悲しき玩具」他。

□1886年(明治19年)2月20日生~1912年(明治45年)4月13日没
 
石川啄木記念館
石川啄木記念館

 

<石川啄木年譜> 渋民~代用教員


□ 1886年 明治19年 2月20日 南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(戸籍面)
□ 1887年 明治20年 3月6日 北岩手郡渋民村大字渋民の万年山宝徳寺に移る
□ 1891年 明治24年 4月 岩手郡渋民尋常小学校入学
□ 1895年 明治28年 3月 渋民尋常小学校を首席で卒業
4月に盛岡市内の母の四兄 工藤常象方に寓し盛岡高等小学校に入学(当時の校長は後の岩手日報社主筆新渡戸仙岳)
□ 1898年 明治31年 4月 岩手県立盛岡尋常中学校(現在盛岡一高)入学。128名中10番
□ 1901年 明治34年 3月 3、4年合同ストライキ事件おこる
□ 1902年 明治35年 10月 5年で中途退学
    10月31日 ユニオン会同人と別宴を張り上京す
□ 1903年 明治36年 2月17日 父にともなわれて帰郷
    12月 「明星」誌上に啄木の署名を用いる
□ 1905年 明治38年 3月 一家宝徳寺を退去し盛岡に移る
    5月 処女詩集「あこがれ」を出版す。上田敏の序詩、与謝野鉄幹の跋。東京 小田島書房(経営者は盛岡出身)より刊行
    6月 堀合節子と結婚。盛岡市帷子小路八番戸に新居を定める。両親妹の一家5人
□ 1906年 明治39年 3月 生活苦のため母、妻と盛岡より渋民に移る(斎藤佐蔵方に間借り)
    4月 代用教員となる(月給8円)
    12月29日 長女京子誕生(須見正雄を迎え結婚、24歳で死亡)
□ 1907年 明治40年 4月 代用教員の辞表提出。校長排斥のストライキを指示、即製のストライキの歌を歌わせる。校長転任し啄木免職となる
 
石川啄木記念館

 

<石川啄木年譜> 北海道~東京時代


□ 1907年 明治40年 5月4日 妻子は盛岡の実家に、母は同村武道の知人宅に托して妹光子を連れ北海道に渡る
    6月 函館弥生尋常小学校代用教員となる
    7月 妻子を迎え青柳町十八番地に住む
    8月 渋民の母を迎えに野辺地に来る
    9月 札幌に移り北門新聞社入社(月給15円)
    9月 小樽新聞社入社
    12月 社内紛争により小林事務長に暴力をふるわれ奮然として退社す
□ 1908年 明治41年 1月 釧路新聞社入社、家族を小樽に残し単身赴任す(月給15円)
    4月19日 家族を小樽より函館に移し海路単身上京す
    5月 金田一京助の友情により本郷菊坂町八二赤心館に止宿、以来創作に専心す
□ 1909年 明治42年 2月24日 東京朝日新聞社入社決定(校正係月給25円)
    6月 宮崎郁雨、函館から家族を同伴して上京。本郷弓町二ノ一八新井方二間に新居を設ける
    10月2日 妻節子が長女京子をつれて盛岡の実家にかえる
    10月26日 早暁節子もどる
□ 1910年 明治43年 6月 幸徳秋水事件に大きな衝撃をうけ、以後、社会主義関係書類を読破する
    10月4日 長男真一誕生。この日歌集「一握の砂」を東雲堂に売る(20円)
□ 1911年 明治44年 4月24日 啄木肺結核に進行し、病中「V・NAROD SERIES」執筆
    6月 妻節子盛岡の実家へ帰省の件をめぐり争いつづく
    7月28日 妻節子肺尖カタルと判明、この7月母も発熱し病臥す
    9月3日 父再び家出す
□ 1912年 明治45年 3月7日 母死去、66歳
    4月13日 早朝危篤に陥り午前9時30分、父、妻、若山牧水に看とられながら永眠す。法名 啄木居士。翌年3月遺骨を函館に移す(立待岬)
    6月14日 次女房江誕生
    6月20日 「悲しき玩具」東雲堂より出版。題名は土岐哀果が命名(194首)
 
石川啄木記念館
石川啄木記念館
 
石川啄木記念館
石川啄木記念館
 

石川啄木記念館


所在地 〒028-4132 岩手県盛岡市玉山区渋民字渋民9
ホームページ http://www.takuboku.com/

 
石川啄木記念館
石川啄木記念館
 
石川啄木記念館

啄木新婚の家
啄木新婚の家
啄木新婚の家

 

我が四畳半


石川啄木の随筆「我が四畳半」の舞台となった家です。
1905年(明治38年)6月4日から新婚啄木・節子と啄木の父母・妹が3週間ほど暮らしていました。

明治38年5月30日、この家で結婚式の披露宴を行う予定でしたが、当日本人が姿を現さず、花婿のいない披露宴となりました。
本人が姿を現したのは6月4日でした。啄木は仙台に行っていたのです。

当時この家には4世帯が暮らしており、奥の2間を借り、8畳間には父母と妹、隣の4畳半に啄木夫妻が新婚の部屋として暮らしていました。

この家の興味深いのは藩政時代の中級武士の武家屋敷であり、この4畳半の部屋は茶室であるということです。

所在地 岩手県盛岡市中央通3-17-18
ホームページ http://www.odette.or.jp/citykankou/ka_c_me_si_i/ka_c_me_si_i.html


石川啄木
石川啄木
 
望郷と漂泊の詩人
1886~1912(明治19~明治45)
岩手郡玉山村渋民(現・盛岡市玉山区)生まれ。
文学者・詩人・歌人。
盛岡中学時代から文学を志し、明治38年に詩集『あこがれ』を刊行。
明治43年刊行の歌集『一握の砂』では生活派歌人として評価を得たが、貧困と病気のため、故郷に戻ることなく26歳で夭折した。

啄木・賢治青春館
啄木・賢治青春館
啄木・賢治青春館

 

国指定重要文化財-啄木・賢治青春館


もりおか啄木・賢治青春館は、明治43年(1910)に竣工した旧第九十銀行を保存活用して、石川啄木と宮沢賢治が青春を育んだ盛岡の街と二人の青春時代を紹介しています。

偉大な文学者として大きな事績を残した二人は、明治から大正にかけて盛岡中学校に学び、その才能に目覚めました。
当時の盛岡は洋風の近代的な建物が建ち始め、モダンな街へと変わりつつありました。
啄木と賢治がこよなく愛し、いつのときも忘れることのなかった当時の盛岡と、二人の青春時代に思いを馳せながら、青春館でのひとときをお楽しみください。

所在地 岩手県盛岡市中ノ橋通1丁目1-25
ホームページ http://www.hellomorioka.jp/seishunkan/
 
啄木・賢治青春館
啄木・賢治青春館

 

第九十国立銀行の設立


明治11年、盛岡藩士の金禄公債を担保に大蔵省から9万2千円、旧藩主南部家出資の8千円の計10万円で第九十国立銀行が十三日町に設立された。
第八十八国立銀行と同じ士族銀行で、発起人は駒嶺魏、山本潤水らであった。
だが武士の商法から経営不振が続き、21年には役員の半数が商人出身者に代わり、27年には佐々木卯太郎を支配人に経営実権は商人に握られた。
このため旧士族と商人が対立、総会も開けないまま休業状態となり業績は低下した。

この紛争のため第一国立銀行盛岡支店の閉鎖に伴う国庫金取扱いの権利取得を逸するなど紆余曲折の経営を続けた。
営業満期を前にした30年、佐々木卯太郎を頭取に村井勘兵衛らが役員となって株式会社第九十銀行となり、31年には金田一勝定、村井源助らを加え、33年には増資して盛岡市材木町と宮古に支店を置くまでになった。

「盛岡四百年」より

 
第九十国立銀行
第九十国立銀行










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