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厨川城(安倍館遺跡)と工藤氏

安倍館遺跡と厨川城跡

文治5年(1189年)源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼし、御家人の工藤行光を岩手郡の地頭としました。やがて岩手郡の地頭は北条氏へと代わりますが、工藤氏は厨川の地に存続したと伝えられています。 室町時代には、斯波郡(紫波郡)高水寺には斯波しば氏、岩手郡東部から斯波郡の東部にかけては河村氏一族、岩手郡不来方には福士氏、雫石に戸沢氏がおりました。 斯波氏は足利氏の一門で奥州探題大崎氏と共に陸奥北部の重鎮でしたが、糠部(岩手県北部から青森県東部)を中心とした南部氏の勢力が次第に大きくなります。 室町時代の工藤氏は雫石川に面した里館遺跡(厨川館:天昌寺町)を拠点にしていましたが、戦国時代に入り、より堅固で大きな城が必要となったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれました。この城は天正20年(1592年)に取り壊されるまで、不来方城(盛岡市)、雫石城(雫石町)とともに、岩手郡の拠点的な城のひとつでした。

鎌倉時代

□1189年(文治5年) 工藤小次郎行光は、源頼朝の配下で、奥州藤原氏攻め「奥州合戦」に参陣し、その論功行賞により西岩手郡を拝領した。工藤行光は伊豆国の工藤庄司景光の長男で、父子で奥州征伐に従軍した。 □1219年(承久元年) 3代将軍源実朝が暗殺され、北条政子が代行、執権である弟 北条義時が補佐。 次第に北条氏の力が強くなり、厨川工藤氏の所領 岩手郡は北条得宗領となっていく。 □1322年(元亨2年) 津軽の安藤氏、蝦夷沙汰職の相続をめぐって大乱勃発。 鎌倉幕府は南部実継に鎮定を依頼、その子長継が奥州糖部郡に鎌倉より出兵、同年糖部郡(現青森県南部町)に着任。 □1328年(嘉暦3年) 南部長継、津軽安藤の乱を平定す。 □1331年(元弘元年) 南部実継、長継親子、鎌倉幕府倒幕に参戦。 □1333年(元弘3年) 師行、南部長継の養子となり八戸根城を築城す。 兄 時長、政長を新田義貞の倒幕軍に参戦させ、義貞軍鎌倉を攻め滅ぼす。 鎌倉幕府滅亡す。 同年三戸南部信長、鎌倉方であった岩手郡厨川の工藤氏を攻め落とす。
厨川工藤氏の居城-盛岡市安倍館

室町時代~安土桃山時代

室町時代(南北朝) □1334年(建武元年)建武の中興 陸奥守鎮守大将軍 北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷の2/3を給す。 □1341年(興国2年) 陸奥介鎮守大将軍 北畠顕信、石巻、日和山城より、八戸南部政長、滴石の戸沢、和賀、河村氏に対し、北朝軍を対治指令し、厨川合戦を発動す。 □1345年(興国6年) 北畠顕信、南出羽より岩手郡滴石に出陣す。 □1346年(正平元年) 顕信、岩手郡滴石に滴石御所を開く。 □1350年(正平5年) 顕信、上田城合戦を指揮。 以降厨川工藤氏の記述が無くなります。南朝軍に敗れて力が弱まったのでしょう。 安土・桃山時代 □ 1592年(天正20年)(文禄元年) 秀吉の一国一城令が行われ、南部領内の諸城破却する。 破却城数36城、仔置城12城 この中に厨川城・平城・工藤兵部少輔持分とあり、厨川工藤氏は戦国時代まで400年生き残り、三戸南部氏に組み込まれていきました。 現在の盛岡市は鎌倉から安土・桃山時代まで400年間、工藤氏の支配地でした。

鎌倉御家人の配置

葛西清重-伊沢・磐井・牡鹿・他数ヶ所 工藤行光-岩手郡の一部 多田忠頼-和賀郡 河村秀清-斯波郡と岩手郡の一部 足利義兼-斯波郡の一部 阿曾沼広綱-遠野 佐々木頼基-閉伊郡 伊達朝宗-伊達郡 千葉常胤-胆沢郡 畠山重忠-葛岡郡 伊達為家-稗貫郡 他28名
発掘調査 この安倍館にある厨川工藤氏の居城、厨川城は、戦国時代に築城されたものであることが発掘調査により判明しています。 鎌倉時代~室町時代の工藤氏の居城は雫石川に面した里館(厨川館:天昌寺)を拠点にしていましたが、戦国時代に入りより堅固で大きな城が必要であったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれたようです。 この城は1592年(天正20年)豊臣秀吉の一国一城令により取り壊されましたが、不来方城(福士氏)滴石城(戸沢氏)とともに岩手郡の拠点的な城のひとつでした。 厨川城は北上川に面した段丘を利用して築かれ、南から南館、中館、本丸、北館、外館、勾当館が並び、西側には帯曲輪がめぐります。

天昌寺

開山は古く不明ですが平安時代の前九年の役(1051~1062年)の際には厨川柵南端にあり、安倍氏の寺として天台宗天照寺を号していました。1189年(文治5年)源頼朝が奥州藤原氏討伐の際、功績により工藤小次郎行光が岩手郡三十三郷を拝領、その後工藤氏の菩提寺となっていました。1609年(慶長14年)頃、工藤氏は栗谷川と改姓し、南部氏の家臣として仕えました。 1684年栗谷川八兵衛=藤原光成入寂の時、物賢関逸大和尚、1649年示寂を開祖として、曹洞宗に改宗し、山号を巌鷲山天正寺として、本尊に釈迦年尼佛を祀って廃れはてた寺を再興しました。寺号は天照寺から天正寺に、そしていつの頃からか天昌寺になったと言います。

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