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盛岡城ーその1

盛岡城の建設

盛岡の地に南部氏が新しい城を築き、城下町をつくろうとしたのは、九戸攻めがきっかけでした。秀吉の全国統一が完成し、兵農分離も進み、近世の時代が始まった時に、南部信直とその子利直によって、盛岡に新しい城と城下町を築くことが決まったのです。 城の構造は三戸城を基本として、城門などに新しい時代の設計を取り入れたものとなっています。ただ、築城開始年ははっきりとした記録がありませんが、文禄元年(1592)年ごろから慶長3年(1598)にかけて整地工事から段階的に始められたようです。 築城工事は、毎日2000人もの人々を動員して行われました。しかし北上川と中津川の洪水や氾濫によって工事がうまく進まず、寛永10年(1633)の完成までに40年近くもの歳月がかかってしまい、信直・利直の南部氏3代にわたる大工事となりました。 明治7年(1874)に廃城、打ち壊しとなるまで歴代藩主が居城し、盛岡藩を治めました。

盛岡城の構造

盛岡城は、本丸などの内曲輪、その外側の外曲輪、さらに外側の遠曲輪の三重構造からなり、その総坪数は約9万坪と言われています。盛岡城の基本構造は、南から北へ曲輪をつらねた、連郭式の城郭となっています。

内曲輪

盛岡城の内曲輪は、石垣で囲まれた本丸、ニノ丸、三ノ丸、腰曲輪(淡路丸)、榊山曲輪と、その周囲の勘定所・御蔵・台所などの諸部分から成っています。 腰曲輪で囲まれた本丸から北へ向ってニノ丸、三ノ丸が並列しています。ニノ丸の東には台所、本丸の南には米内蔵、三ノ丸の西には新蔵など諸部分が付属しています。 【本丸】 本丸は城内の一番高いところに位置していて、藩主の政務や公式行事が行われる表御殿と、藩主と家族の私的な奥御殿とが建てられ石垣で囲まれていました。 本丸の南東隅には三層の天守閣がありました。南西隅には二階櫓、北西隅には二層の小納戸櫓がありました。北側の門は本丸の表門にあたり廊下橋を渡ってニノ丸御殿に通じていました。東側の門は「御末門」と呼び、台所から登ってきて、右折して本丸の内部へ入るようになっています。  

三層の天守閣跡

二層の小納戸櫓跡

二階櫓跡

御末門跡

【二の丸】 二の丸は本丸より一段低いところにあって、本丸とは屋根のある廊下橋で繋がれていて、藩政を取り扱う諸役所が置かれていました。 二の丸北東部には「車門」という櫓門が設けられていました。 参勤交代のため、大名行列をしてお城を出られるときは二の丸御殿の玄関から駕籠に乗り車門から綱門を出て出発されました。 なお、築城当時の二の丸は石垣はなく、すべて地山のままで木柵をめぐらせたものでした。しかし手狭になり、のちに本丸が新たに建てられます。

二ノ丸の入口「車門」

本丸と二ノ丸をつなぐ廊下橋跡

【三の丸】 三の丸はさらに一段低くなっているところで、この三の丸の外側には勘定所などの役所が設けられ、現在桜山神社の拝殿や社務所があります。 三の丸の南側に藩主やその家族たちの食事を作る台所も設けられていました。 三ノ丸には、北と南に門があり、北側は櫓門で「瓦門」と呼び、南側は「不明門」といいました。不明門は本来は「鵜住門」と称したもので、台所前御門の通称です。北側の瓦門の東には「烏帽子岩」があり、南東部には石組みの井戸が残っています。

瓦門跡

不明門(鵜住門)跡

【腰曲輪-淡路丸・馬場・待合・榊山曲輪】 本丸の東・南・西の三方は、腰曲輪によって守護されています。 南東部には入隅と横矢掛りがあり、この部分には二階櫓、横矢掛りには小櫓が設けられていました。 東側の腰曲輪には桜山神社跡があります。 南側、南西部の隅は、「吹上げ三社」の跡があり、この北側は「吹上門」が建てられていました。 南側中央部は「桜の馬場」があり、ここで公儀献上の馬を、藩主自ら上覧して選定されました。 西側は三角形をなす一郭があり、城内三社の1つである榊山稲荷が祀られていたので、「榊山曲輪」と呼ばれていました。

中津川より馬場、2階櫓、淡路丸を望む

腰曲輪(淡路丸)

吹上御門跡

馬場跡(桜の馬場)

待合

榊山曲輪

2階櫓・横矢掛り跡

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