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盛岡ヒストリー 大正時代 原敬記念館 石割桜

米騒動と平民宰相

1914年(大正3年)、第一次世界大戦が開始されると次第に米価は上昇し始めました。
さらに1918年(大正7年)になると米価は暴騰しました。
この米価上昇は戦争景気による都市部への人口移動と工業労働者の増加、農家の食生活の変化が原因でした。
さらに地主や商人が米穀投機に走るようになり、売り惜しみや買い占めが発生しました。
これに対し寺内正毅内閣は「暴利取締令」や予算編成をしましたが不充分で効果が上がりませんでした。
この悪条件のなか、寺内内閣はシベリア出兵を宣言しました。
この宣言により流通業者や商人は戦争特需による売り惜しみを加速させました。
この米騒動の影響を受け寺内内閣は退陣、西園寺公望に組閣を命じましたが西園寺はこれを拒否、原敬を推薦しました。
ここに原敬内閣が誕生しました。
原は日本で初めての政党内閣で爵位を持たない、衆議院議員を首相とする初内閣で「平民宰相」と呼ばれました。
しかし政策道中場の1921年(大正10年)11月4日、東京駅で右翼青年 中岡良一により暗殺されました。
 

大正

 
大正

 

原敬記念館


本格的政党政治の基盤を築いた本県初めての総理大臣。
東京駅にて暗殺された「平民宰相」原敬(はらたかし)の波瀾の生涯を示す資料や遺品等を展示しています。
原敬生家の敷地内にあり、生家や書斎(鎌倉の別荘から移築)等の見学ができます。

TEL 019-636-1192
所在地 岩手県盛岡市本宮字熊堂93-1
 
原敬記念館

原 敬
原 敬
 
初の平民宰相
安政3年(1856)に生まれる。
15歳の時、戊辰戦争の敗戦の屈辱を心に秘めて上京し勉学に励んだ。
新聞記者を経て主として外務省を中心に明治政府の役人となり、井上馨や陸奥宗光にその才能を認められて活躍し外務次官にまで昇進した。
明治30年(1897)外務省を退官して再び言論界に戻り、大阪毎日新聞社長として論説及び経営に腕を振るった。
明治33年立憲政友会の創設に関わり、政治家の道に入って、明治憲法のもとで政党政治の確立につとめた。
明治35年、衆議院議員に立候補して以来故郷の盛岡より連続8回当選し、また中央政界では立憲政友会の幹事長から総裁となり、大正7年(1918)9月首相となった。
新聞社時代には署名論文に筆をとる一方、数々の著書を残した。
満19歳から、65歳の兇刃に倒れた当日までの記録「原敬日記」83冊は、学術上の貴重な文献となっている。
趣味として俳句をたしなみ、「一山」や「逸山」の号でその時々の心境を託したすぐれた作品が数多く残されている。

 

 

<原敬略年譜>


□ 1856年 安政3年 2月9日
(旧暦) 岩手郡本宮村(今の盛岡市本宮)に盛岡藩士の直治・リツ夫妻の次男として生まれる。幼名・健次郎
□ 1868年 明治元年   戊辰戦争で盛岡藩敗れる。(12歳)
□ 1870年 明治3年   藩校「作人館」に学ぶ。
□ 1871年 明治4年 7月 名を敬と改める。(15歳)
    12月 上京。翌年「共慣義塾」に学ぶ。
□ 1874年 明治7年 4月 フランス人宣教師エブラルの学僕をしながらフランス語を学ぶ。
□ 1875年 明治8年 6月 平民として分家独立。(19歳)
□ 1876年 明治9年 7月 司法省法学校104名中2番で合格。
□ 1879年 明治12年 7月 『露西亜国政論』を翻訳出版。
    11月 郵便報知新聞社に入社。
□ 1882年 明治15年 11月 外務省入り。(翌年11月、天津領事)
□ 1885年 明治18年 12月 外務省記官としてパリ公使館に着任。(19年、代理公使)
□ 1889年 明治22年 4月 農商務省参事官、後、秘書官。
□ 1890年 明治23年 5月 農商務大臣陸奥宗光の秘書官。
□ 1892年 明治25年 8月 外務省通商局長。外務次官を歴任。
    9月 芝公園7号地に私邸を取得。
□ 1896年 明治29年 6月 特命全権公使として朝鮮に赴任。
□ 1898年 明治31年 9月 大阪毎日新聞社社長。
□ 1900年 明治33年 12月 立憲政友会総務委員兼初代幹事長。
    12月 第4次伊藤博文内閣の逓信大臣。
□ 1901年 明治34年 7月 大阪北浜銀行頭取。
□ 1902年 明治35年 8月 盛岡から衆議院議員選挙に初めて出馬当選、以後7回連続当選。
□ 1903年 明治36年 3月 大阪新報社社長。
□ 1905年 明治38年 4月 古河鉱業株式会社副社長。
□ 1906年 明治39年 1月 第1次西園寺公望内閣の内務大臣。(同44年第2次西園寺内閣、大正2年山本内閣で内務大臣を歴任)
□ 1909年 明治42年 8月 盛岡古川端に別邸・介寿荘を新築。
□ 1914年 大正3年 6月 第3代政友会総裁。(58歳)
    11月 鎌倉腰越に別荘を新築。
□ 1917年 大正6年 4月 第13回総選挙で政友会が第一党。
    9月 戊辰殉難者五十年祭で祭文を読み、賊軍の寃を雪ぐ。
□ 1918年 大正7年 9月 総理大臣として、わが国初めての本格的な政党内閣を組織(62歳)高等教育機関、鉄道網の整備、皇太子外遊に尽力。
□ 1921年 大正10年 11月4日 東京駅頭で暗殺される。(65歳)
 
原敬記念館
原敬記念館
 
原敬記念館

石割桜
石割桜
石割桜

 

石割桜


盛岡の名勝「石割桜」は、大正12年3月7日付で文部省指定の天然記念物として、盛岡市で一番最初の文化財に指定されました。
盛岡地方裁判所の構内にあります。

石割桜のある場所は、江戸時代には盛岡藩の家老職である北家代々の屋敷でした。
 
石割桜

 

石割桜の命名と推移


□ 1876年(明治9年)
明治天皇が東北地方御巡幸の折、「桜雲石」と命名して紹介申し上げ、以来石割桜として有名になった。
□ 1923年(大正12年)3月7日
文部省指定の天然記念物となる。
□ 1932年(昭和7年)9月2日夜半
裁判所から出火し、盛岡消防組の活動で他延焼は免れたが、構内の建物はほとんど焼失した。このとき、庭師藤村益次郎一家は必死に記念物石割桜を被災から護り、奇跡的に蘇生し今日に残した。
□ 1934年(昭和9年)
裁判所は新築落成し、この工事の際、石割桜の保存のため、建物の建築の位置を後ろにバックさせるなど施工に気づかった。
 
石割桜
石割桜
 
石割桜

 

桜はエドヒガン桜


石割桜の花は、普通のエドヒガンと比較して非常に小さい可憐な真っ白い花弁で、樹は巨大な花崗岩の割れ目に自然に生えたものとみられ、樹齢は推定で約350年以上だという説が多いです。
長い年月を経過して巨大な石の割れ目を押し広げてきました。
大正11年の計測調査では、約13cmの割れ目、昭和62年には18.6cmで、約65年間でおよそ6.5cmも拡張したことになります。
 
石割桜
石割桜
 
石割桜








盛岡略年表
 
縄文・弥生・大和時代
B.C.6000~


奈良時代
749 勝宝元年
奥州から初めて黄金を献じた
770 宝亀元年
坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍とする
789 延暦8年
紀古佐美征討将軍、胆沢の地を大軍で攻めたが大敗
794 延暦13年
坂上田村麻呂を征夷副将軍に命じ胆沢の蝦夷を征す
797 延暦16年
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ず

平安時代
802 延暦21年
坂上田村麻呂、胆沢城を築く
803 延暦22年
坂上田村麻呂、志波城を築く。この年、征夷大将軍を辞職する
804 延暦23年
田村麻呂を征夷大将軍に再任する
811 弘仁2年
和我、稗縫、斯波の三郡建置。同年文室綿麻呂を征夷将軍に任ず
813 弘仁4年
徳丹城が設置される
1051 永承6年
安倍頼良そむき、源頼義を陸奥守に任じて追討す
1056 天喜4年
前九年の役おこる
1062 慶平5年
前九年の役おわる。源頼義、厨川柵にて安倍貞任、藤原経清を斬る
1081 永保元年
源義家、陸奥守に任命される
1083 永保3年
藤原清衡に伊沢・江刺・和賀、藤原家衡に稗貫・志波・岩手郡を分領させる。後三年の役はじまる
1087 寛治元年
源義家、金沢柵陥落し、清原氏滅亡する。後三年の役おわる
1089 寛治3年
藤原清衡、陸奥押領使となり、伊沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡を領し、江刺郡豊田館に居住す
1124 天治元年
藤原清衡、中尊寺金色堂を建立す
1126 大治元年
清衡、中尊寺金堂・三重塔などを建立す
1156 保元元年
保元の乱
1170 嘉応2年
藤原秀衡、鎮守将軍となる
1175 安元元年
藤原俊衡、樋瓜館に住む
1184 寿永3年
平兼盛、磐手郡滴石戸沢に移り住む
1187 文治3年
藤原秀衡、死去
1189 文治5年
奥州合戦、源頼朝、藤原泰衡を攻める。伊達郡阿津賀志山の合戦で、三沢安藤四郎の兵略によって奥州軍敗走。河田次郎の裏切りにより泰衡討たれる。葛西清重、頼朝より陸奥国御家人の奉行を命じられる。また津軽には宇佐美平次実政を惣地頭として派遣。頼朝、鎌倉へ帰途。工藤小次郎行光に岩手郡を与える
1190 建久元年
大川兼任の乱、泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とす
1192 建久2年
頼朝、東海道大将軍、千葉介常胤、東海道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る

鎌倉時代
1268 文永5年
足利尾張守家氏。斯波郡に下向。高水寺に在城す
1333 元弘3年
南部信長、岩手郡厨川の工藤氏を攻めて降す
1334 建武元年
北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷を給す

室町時代南北朝
1334 建武元年
建武の中興 鎮守府将軍北畠顕家、奥州津軽に下向。南部師行を郡代として八戸根城を築城。また子、顕成に津軽浪岡を所領として与える
1335 建武2年
足利尊氏、斯波家長を奥州管領として高水寺城に下向させる
1336 建武3年
十三湊安藤師季、八戸根城を攻撃
1338 延元3年
北畠顕家、南部師行、大阪、和泉、石津において戦死。十三湊、大津波に襲われる。藤崎城主安藤秀光、大光寺に入り大光寺氏を名乗る
1341 興国2年
北畠顕信、将軍となり、厨川合戦を発動す。この年顕信、滴石御所を開く。安藤師秀、八戸南部政長の勧誘に応じ南朝方となる
1392 明徳3年
南北両朝合体す

室町時代
1411 応永18年
三戸南部守行、秋田湊の安藤鹿季と出羽仙北に戦う
1418 応永25年
「関東大名南部」上洛。将軍義持に馬100頭・金1,000両を献上す。この後「本八戸城」築城か?
1423 応永30年
安藤陸奥守、新将軍義量就任の賀として馬20頭・鳥5,000羽・銭2万疋・海虎(ラッコ)の皮30枚・昆布500把を献上
1432 永享4年
十三湊、安藤盛季、康季南部守行に敗れ、蝦夷ヶ島に敗走。幕府、調停に乗りだす
1436 永享8年
八戸糖部南部、斯波で和賀氏と合戦す
1443 嘉吉3年
津軽十三湊、安藤義季、三戸南部義政に敗れ蝦夷地に敗走す
1445 文安2年
安藤義季、津軽西浜に上陸
1453 享徳2年
安藤義季、南部氏に敗れ自害
1454 享徳3年
湊安東政季、南部氏に敗れて函館に敗走す
1456 康正2年
安東政季、秋田に上陸し檜山城を築く
1467 応仁元年
浪岡北畠顕義、浪岡城築城
1470 文明2年
安東師季、津軽回復を目指し藤崎館を攻めるが成功せず
1491 延徳3年
南部久慈光信、津軽西浜種里城に入る
1492 明応元年
陸前国の大崎教兼が斯波郡の地頭職となる
1495 明応4年
大崎教兼の子、詮高、高水寺城に住む
1498 明応7年
南部光康、横内城(現青森市)を築城す
1502 文亀2年
南部久慈光信、大浦城を築き、嫡男盛信を置く
1521 大永元年
糠部南部氏と和賀氏、斯波郡の郡山で合戦す
1524 大永3年
三戸南部安信、津軽地方を平定す
1533 天文2年
南部安信の弟高信、津軽の反乱を鎮圧する。高信は津軽郡代に任じられ、石川城(後弘前城)に拠る
1537 天文6年
三戸南部氏、南部晴政、斯波の郡山で和賀氏と合戦、和賀氏敗退す
1539 天文8年
南部彦三郎安政、上洛、将軍義晴より偏諱をうけ晴政と改名
1540 天文9年
南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏新庄に敗走す
1545 天文14年
斯波氏、南部滴石城を攻略、三戸南部晴政軍敗れて三戸に退く
1562 永禄5年
檜山安東愛季、比内長岡城を攻め浅利則祐を自害させる
1567 永禄10年
大浦為信、義父為則の跡を継ぎ大浦城主となる
1569 永禄12年
安東愛季の軍勢、南部領鹿角郡に侵攻。南部石川高信これを破る
1571 元亀2年
大浦為信、石川城を攻略、石川高信、自害す
1572 元亀3年
斯波氏、南部晴政軍に敗れ、見前郷を失う。斯波氏、九戸政実の弟、弥五郎(高田吉兵衛)を女婿に迎える

安土・桃山時代
1578 天正6年
大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる
1579 天正7年
安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開
1582 天正10年
南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする
1583 天正11年
安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合
1585 天正13年
大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗
1586 天正14年
南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ
1588 天正16年
三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡
1589 天正17年
湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる
1590 天正18年
南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏
1591 天正19年
九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める
1592 文禄元年
南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる
1594 文禄3年
南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す
1597 慶長2年
盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる
1598 慶長3年
南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡
1599 慶長4年
南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる
1600 慶長5年
家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣
1601 慶長6年
利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡)
1602 慶長7年
鹿角白根金山が発見される

江戸時代
1614 慶長19年
利直、大阪冬の陣に出陣
1615 元和元年
大阪夏の陣おこる
1625 寛永元年
三戸旧城下の町民を盛岡に移す
1632 寛永9年
南部利直が江戸桜田邸で逝去す
1633 寛永10年
南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める




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