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前九年の役

平安時代の中頃、朝廷の権力が弱まり、武士が活躍し始めてきました。 その頃、蝦夷を支配する目的で築かれた多賀城や胆沢城がその役割を終えます。 北上盆地では胆沢城がなくなり、鎮守府が残されました。 鎮守府には鎮守府将軍が京からやってきますが、地元の有力者が役人になって しだいに鎮守府の実権を握るようになってきます。 鎮守府では、胆沢城時代の5郡に加え、のちに設置される岩手郡を含めた奥六郡を管轄していました。 その奥六郡を支配するようになったのが陸奥国で力を持っていた安部氏でした。 朝廷は奥六郡を統治下に入れようと、陸奥国で強い力を持っていた土着豪族の安倍氏に、 奥六郡の統治を任せましたが、統治を任された安倍氏は、次第に朝廷の言うことを聞かなくなり、 兵を駐屯させる軍事的拠点として奥六郡の外側に城柵を設け、朝廷へ税も納めなくなりました。 そして、最終的には最終的には奥六郡以南の地域にまで支配地域を拡大し始めます。

前九年の役の始まり ー鬼切部の戦いー

この安倍氏に対し、陸奥国守であった藤原登任は、隣国の出羽国と共同で安倍頼良に対して兵を派遣します。 1051年、藤原登任軍と安倍軍による「鬼切部の戦い」が起こります。これが、前九年の役の始まりとなりました。 鬼切部での戦は安倍頼良の圧倒的勝利に終わります。朝廷からその責任を問われた藤原登任は、陸奥守を解任され、 その後任として、公家ではなく、武家の源頼義が任命されます。 1052年、朝廷は藤原彰子の病気快癒祈願のため、大赦を行いました。 安倍頼良が朝廷軍を撃退した罪も免罪となり、前九年の役が一時停戦となりました。

前九年の役の前哨戦 ー阿久利川事件ー

源頼義が陸奥守兼鎮守府将軍を務めている間、安倍頼時も税を納めるようになり、頼義を饗応していました。 しかし、源頼義の陸奥守としての任期が満了する1056年事件は起こります。 源頼義の部下だった藤原光貞が阿久利川で野営をした際、何者かが乱入し、夜襲を受けました。 源頼義が心当たりのある犯人を尋ねると、藤原光貞は、 「はっきりとは分からなかったが、先年、安倍頼時の息子である安倍貞任が、私の妹を嫁に欲しいと言ってきたが、 卑しい俘囚だったため断りました。きっと安倍貞任の仕業に違いありません」と告げます。 これを聞いた源頼義は、安倍貞任に出頭を命じますが、安倍頼時が 「一度罪を許され、服従しているのになぜそのようなことをしようか。 もし攻め入ってくるようなら、私達は死を覚悟で徹底抗戦する」としてこれを拒否しました。 そのことから安倍氏と朝廷は戦いに突入し、前九年の役は再開されました。

前九年の役の再開

1056年8月、「安倍頼時追討令」が発令され、前九年の役が再燃しました。 源氏軍には、関東武士団や地元の豪族も参加しており、その中に、安倍頼時の娘婿である藤原経清がいましたが、 安倍軍に寝返りました。安倍軍に加わった藤原経清の参戦により、安倍軍は朝廷軍を苦しめます。 その後、源頼義と安倍頼時の一進一退の攻防が続き、不利な戦いを余儀なくされた源頼義は、 津軽に勢力を持っていた勢力を持っていた安倍富忠を味方に引き入れることに成功したのです。 安倍頼時は、他の蝦夷が源頼義側に付かないよう阻止しようとしますが、 安倍富忠のもとへ説得に向かった安倍頼時を安倍富忠の兵が不意打ちで襲い、1057年7月26日に安倍頼時は死去しました。 しかし、安倍頼時の死は、安倍氏の力を削ぐどころか安倍軍の団結をより一層強固にしただけでした。 息子の安倍貞任に総大将が代わってからも、戦いは5年間続くこととなったのです。  

黄海の戦い

1057年11月、「黄海の戦い」が起こります。源頼義は陸奥国府から出陣し、安倍貞任に決戦を挑みました。 安倍貞任は河崎柵に兵力を集め、現在の岩手県一関にあたる「黄海」の地で源頼義軍を迎撃。 冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しく、兵力でも劣っていた源頼義軍は大敗しました。 「黄海の戦い」の勝利で勢いに乗った安倍氏は、奥六郡以南に勢力を伸ばし、 朝廷の赤札に変わって藤原経清の白札で税を徴収する程になっていました。 一方の源氏は、「鬼切部の戦い」と「黄海の戦い」の二度の敗戦で失った国府兵も補充されないという厳しい状況になります。 数年を経て、陸奥守の任期が再度終わり、のちに再々任されることになると、 頼義は兵の補充のため、関東以南の武士に働きかけ、源氏の私軍を編成。 また、安倍氏と並んで勢力を誇っていたお隣の出羽国の俘囚・清原氏の族長清原光頼に接近しました。 源氏方に加担することに対し、なかなか首を縦に振らない清原氏でしたが、 必死の説得の甲斐もあり、ついに清原氏は源頼義の説得に応じ援軍を派遣することとなります。 これが今後の戦の行方を決めたのです。

前九年の役の終わり

強大な力を持つ清原光頼を味方に付けたことにより、これまでの安倍氏有利の状況が一転しました。 10,000余りの軍勢を率いた官軍は「小松柵の戦い」「衣川関の戦い」を次々に勝利し、 ついに安倍氏の最北の重要拠点にして本拠地である厨川柵の決戦を迎えます。
1062年9月17日、厨川柵は陥落し、安倍貞任は戦で負った傷のため、命を落とします。 朝廷側より寝返った藤原経清は、苦しみを長引かせるために錆びた刀の斬首刑となりました。
これにより、鬼切部の戦いから数えて12年にもわたる「前九年の役」は終結し、安倍氏は滅亡しました。 こうして、安部氏の奥六郡は清原氏に渡り、清原氏は北奥羽最大の実力者となりました。

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