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滴石城から雫石城へ(下)

戸沢氏家臣団と家臣その後

戸沢氏家臣団は手塚氏、長山氏、木村氏、田口氏、舘市(高橋)氏、用の沢氏、橋場氏が知られています。それぞれ城館があったと思われますが一部を除いて不明です。 城主戸沢政安が仙北角館城に落ちたときは、一部の家臣は一緒に仙北に移ったようですが、残った家臣も多く、この残った家臣団が高水寺城斯波氏を受け入れ、斯波雫石氏の時代を築きます。
<多賀神社> 雫石町御明神にある神社で近江明神とも呼ばれた旧村社。 承元(1207~1210年)の頃、佐々木盛綱の家臣、木村太郎四郎が近江の国を去るとき、多賀明神(現滋賀県犬上郡多賀町)の神剣を持参、百姓左近の娘と縁組し勧請した、御明神の村名の源といいます。
<大館城> 雫石町大字御明神字山津田の大館山に所在し、大規模な山城です。 南北朝時代戸沢氏の築城と考えられています。 常時城主が居住した城とするには無理があり、仙北門屋城との連絡や有事の際の詰めの城や逃城的な防禦に使用されたと考えるのが妥当な城です。
<長山館> 雫石町大字長山字岩井花に所在し、別名岩井花館とも呼ばれています。 戸沢氏の一族長山氏の居館とされています。 1540年(応永31年)石川高信に攻められたときは自らの手で城を焼き払って、戸沢政安とともに角館に落ちたとされています。
<舘市館> 盛岡市繋字舘市に所在し、別名繋古館とも呼ばれ、南北朝時代の滴石城の支城と考えられます。館主は滴石戸沢氏の一族手塚伊織と伝えられます。 戸沢宗家が角館に移ると手塚氏は滴石城主に、舘市館は同族の家臣高橋出雲になりました。1586年(天正14年)の南部信直による雫石城攻略時には、館市出雲守が居住し、南部信直の人質となっています。
<田口館> 盛岡市繋字湯の館に所在し、別名湯の館とも呼ばれています。築城時期は不明です。館主は戸沢氏の家臣田口氏で綱木萪内を所領していました。 1613年(慶長18年)南部利直から旧領を含めた350石の地行地を下繋に拝領。 1614年(慶長19年10月)大坂冬の陣に利直に従って出陣。 翌1615年(元和元年)再度利直に従って大坂夏の陣に出陣し、功績により利直公より田沢湖町生保内を増加拝領。繋より田沢湖生保内に移住し現在に至っています。
<八幡宮> 雫石城址にある八幡宮は滴石城主手塚左衛門の氏神でした。 1586年(天正14年)、南部信直によって雫石城は攻略され、1592年(天正20年)豊臣秀吉の命令によって城が破壊され神社も廃社となりました。 その後雫石氏の遺臣古館氏等によって再建されました。 1953年(昭和28年9月)雫石氏の後裔で宮野目村の雫石誠介氏の氏神から金属製で2寸程の御神体を遷座して現在に至っています。

戦国時代の岩手郡、紫波郡

戦国時代の岩手郡、紫波郡には6つの大きな主力の城がありました。 紫波郡は、「川村氏の大巻城」「斯波氏の高水寺城」の2つ。 岩手郡には、「福士氏の不来方城(現盛岡市)」「工藤氏の厨川城(現盛岡市安倍館)」「川村氏の下田城(現盛岡市玉山区)」「雫石氏の雫石城」の4つ。 川村氏、工藤氏、福士氏は三戸南部側で、雫石氏は斯波氏で、両者の攻防戦は長期に渡っていました。 斯波氏は雫石に進出し、一方南部方の工藤氏の厨川城は室町時代までは現盛岡市天昌寺(里館)でしたが、戦国時代に入ると、斯波氏との攻防戦が長期に渡ることを予期して現盛岡市安倍館に新厨川城を築城しました。 さらにこれら主力城主の下に家臣団の小城がいくつも存在しました。

戦国時代

<斯波詮貞、滴石に入り雫石詮貞を名乗り、「斯波雫石御所」を開く。これにより斯波氏66郷を領す> □1545年(天文14年) 斯波詮真、岩手郡の太田、滴石を攻撃したが南部軍の石川高信に敗れて退却する。 □1546年(天文15年) 斯波詮真、岩手郡、太田、滴石を2度目の攻略により占領す。 同年末、滴石を雫石に改称し、詮高の二男詮貞を雫石城主にし、戸沢氏の継承とする。 また三男詮義を太田猪去に配置した。 これにより斯波氏、雫石郷三千貫文を領す。 □1549年(天文18年) 斯波詮高、南部領(福士領)向中野、本宮を攻略。これにより雫石川下流域はすべて斯波氏の所領となる。

衰退への道

□1571年(元亀2年) 見前郷で斯波氏農民と南部氏農民の間で紛争が生じる。 □1572年(元亀3年) ・南部軍斯波郡に進攻し、斯波軍敗れて見前郷を失う。 ・同年4月斯波御所の要請により遠野城主阿曽沼孫三郎広長の二男綾織越前広信を雫石氏の軍事顧問として招く。 広信、雫石城の改修工事と土樋堰水の工事に入る。 ・斯波氏は南部氏の支族、九戸政実の弟、弥五郎を娘婿に迎え、知行として高田村を与えた。弥五郎は高田吉兵衛と改名した。 □1573年(天正元年)春 ・九戸実政、雫石詮貴のところへ晴山治部忠房を遣わし加担するように口上を伝えた。詮貴は容易に領掌し200の手勢で厨川工藤氏の所領太田、大釜の両館を焼き払い、ただちに不来方城の福士氏を攻めたが後難を恐れて引き払った。 ・同年7月、征夷大将軍足利義昭、槙島城にて織田信長に敗れて室町幕府事実上滅亡す。義昭、京都を追放される。これにより斯波氏、後ろ盾を失う。 □1575年(天正3年) 軍師綾織越前、雫石城改修工事完了、土樋堰水、雫石城に達し完了。 □1576年(天正4年) 雫石詮貴、軍師綾織越前を厨川工藤氏、川村氏の備えとして、大釜篠木に配置し、「越前堰」を掘らせる。

雫石城落城

□1582年(天正10年) 南部晴政死去す。田子城主南部信直を三戸城主に迎える。 □1583年(天正11年) 南部信直、斯波の大萱生氏を攻撃す。 □1584年(天正12年) 信直、川村、田頭、沼宮内、川口の諸氏200騎で雫石城北方の名子の台地に陣を敷いたが1日で引き上げた。 □1585年(天正13年) 信直、再度200騎の兵で晴山に陣を敷いたが1日で引き上げた。 □1586年(天正14年) ・斯波高田城主で斯波氏一族の高田吉兵衛が離反して三戸南部に属す。信直、高田吉兵衛を岩手郡中野館に駐在させて斯波勢の押さえとする。斯波軍、岩手郡に進攻したが撃退される。 ・同年9月29日、雫石城、信直に3度目の攻撃を受けた。そこで雫石久詮は、繋舘市城主高橋出雲を三戸に送って和を請うたが、許されずに攻撃を受けることになった。 ・雫石城主久詮は、雫石城を戸沢氏家臣、手塚左京に譲り、斯波高水寺城に退却した。 ・その後、手塚氏は繋舘市城に退却したため雫石城を守るのは百姓達ばかりとなって雫石城は落城した。三戸に出向した高橋出雲は人質となっていたが返され、一方手塚左京は仙北角館に落ちた。 □1591年(天正19年) 南部信直、雫石城に八日町太郎兵衛を配置す。 同年秀吉の一領主一城の方針により雫石城は破却された。

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