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奥州藤原氏の興亡

藤原清衡とは

前九年の役で安部氏が敗れた時、安部氏側で戦っていた藤原経清は源頼義によって処刑されてしまいます。処刑された藤原経清の子、藤原清衡は清原氏の養子となり清原清衡と名乗ることになります。 それから20年経った1083年、清原氏が支配するようになった東北地方で再び戦乱が起こります。きっかけは、清原氏一族内部の土地をめぐる争いでした。これが後三年の役です。この後三年の役で清原氏は清原清衡を除き全て滅んでしまいます。清原氏はすでに滅んでしまい、清原氏の養子の立場も不要になった清原清衡は再び藤原姓を名乗るようになりました。

奥州藤原氏の発展と平泉文化

奥州藤原氏の初代となった藤原清衡は、平泉に館を移し奥州を支配するようになりました。清衡は、奥州の恵まれた資産(砂金・馬など)のおかげで莫大な富を築きます。清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かしませんでした。こうして奥州藤原氏は朝廷からの信頼を獲得し、中央の政争に巻き込まれない盤石の地位を確立したのです。 仏教への信仰も厚かった藤原清衡が一番に望んだことは、平和な世の中をつくることでした。前九年の役、後三年の役を通じ多くの戦死者を出し地獄を味わった藤原清衡は、この戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺の建立を始めたのです。 清衡は、金色堂、二階大堂をはじめ、様々な堂塔を建てたり、池を掘って庭園を造営したりするなど、20年という年月をかけて中尊寺を完成させました。 また中尊寺を建立するにあたり清衡は、争いのない平和な国にすることを誓った『中尊寺建立供養願文』というものを書いています。
初代清衡の死後、清衡の跡を継いだのは基衡です。基衡は、清衡が描いた仏教を中心とした平泉の街づくりをさらに発展させていきました。基衡は平泉の南に毛越寺を建立しました。 毛越寺は二度の火災に遭い、建物は残っていませんが、礎石や池などが庭園として残っています。 歴史書「吾妻鏡」には、毛越寺は我が国で他に例がないほど立派なお寺だと記されています。
基衡の死後、三代目を継いだのは秀衡です。秀衡は基衡が造りはじめた毛越寺を完成させました。また、無量光院を中心に柳之御所周辺を含めた広い範囲の整備を行い、平泉の都市を完成させました。

奥州合戦と奥州藤原氏の滅亡

奥州藤原氏は、圧倒的な経済力と武力で強大な力を持っていましたが、源義経によって破綻してしまいます。源頼朝の策略によって100年続いた栄華の奥州藤原氏は滅亡しました。 奥州藤原三代目の藤原秀衡は平治の乱で敗死した源義朝の子・牛若丸を匿い、後には頼朝に追われる義経を受け入れたことでよく知られています。しかし藤原秀衡は、源義経が奥州入りした9ヵ月後の1187年(文治3年)10月29日、死去してしまうのです。亡くなる際に、藤原国衡、藤原泰衡、源義経の3人に「源義経を主君として仕え、3人で力を合わせて源頼朝の襲撃に備えよ」と言い残しています。 秀衡が亡くなった後、後を継いだ泰衡は「義経を助けると、平泉を攻撃するぞ」という頼朝からの圧力に抵抗しきれず、義経を攻撃し、自殺に追いやってしまいます。父の秀衡は頼朝と徹底抗戦するという強い意思表示のために義経を匿ったのに、息子の泰衡は信念を貫き通すことができずに義経を殺してしまったのです。 源頼朝に源義経の首を送り、これで奥州の平和は保たれると思った藤原泰衡でしたが、源頼朝の目的は、奥州藤原氏を討つことそのものでもありました。 源頼朝より「長い間源義経を匿った」、「源頼朝の許可なく源義経の首を取った」という理由で、鎌倉軍の襲撃を受け、約100年間栄華を誇った平泉は陥落してしまいました。 その後、たび重なる戦火や野火により平泉の堂塔は焼け落ちてしまい、ほとんどが再建されることはありませんでした。

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