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武士勢力の興亡 鎌倉~安土桃山時代の盛岡

鎌倉時代

奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は1192年、平安京とは独立した新たな武家政権「鎌倉幕府」を創設します。源頼朝は、奥州合戦で平泉を攻めたその足で、前九年の役での頼義の功績をしのぶために厨川を訪れます。 その時に、御家人であった工藤行光を岩手郡の地頭に任命します。そのほかにも奥羽各地で御家人や在地の有力者を地頭にし、鎌倉時代の新秩序を作っていきます。斯波郡は足利義兼の所領になったと言われています。足利氏は三代あとの家氏の代から、所領の斯波郡にちなみ斯波氏と呼ばれるようになります。  
その後、鎌倉幕府内で執権を代々務めた北条得宗家が次第に勢力を持つようになっていきました。北条氏は奥羽でも支配地を広げるようになり、奥羽の約半分が北条得宗領となります。 この頃に築かれたのが、台太郎遺跡で確認された居館です。東西160メートル・南北110メートルを不整五角形に堀をめぐらし、内部に大型掘立柱建物をもつ居館跡がみつかっていて、地頭に仕える在地領主の屋敷と考えられます。 このように、北条得宗家を頂点に岩手郡の地頭代、各地の有力者、農民という順番のはっきりとした序列社会が形成されていきました。

南北朝時代

鎌倉幕府は次第に全国支配の力を弱め、1333年に滅びます。後醍醐天皇は天皇親政を目指し(南朝)、足利尊氏は武家政権をかかげることで(北朝)、南北朝に分かれて、国内全体が争乱状態に陥りました。奥羽では南朝方の北畠顕家が陸奥守として赴任、北朝方の斯波家長が陸奥国府を攻撃するなど、奥羽でも南北朝の対立が続きました。 この頃、北畠家家臣の南部師行が糠部郡の奉行となります。南部氏が奥羽の歴史に登場し始めるのはこの頃からです。
南北朝は1392年に合体します。長い争乱で奥羽の勢力も大きく変わります。斯波氏の本家は室町幕府の三菅領の一人として中央政界で活躍しました。斯波氏は奥羽北部で大きな勢力をふるい、斯波御所と呼ばれるようになります。また南部氏も糠部を中心に勢力をつけていきます。この時の南部氏の中心は、根城南部氏です。

和賀稗貫合戦

1435年、和賀郡内和賀氏と須々孫氏が争いを始めます。さらに隣の稗貫氏などを巻き込み、動乱が拡大していきます。和賀氏は根城の南部氏に支援を求めます。南部氏は北奥羽の有力者に呼びかけ、連合軍を作ります。 2万人から3万人の連合軍は不来方に集結し、合戦が繰り広げられました。その結果、連合軍が勝利し、和賀氏が和賀地方の支配権を確保しました。この戦いで南部氏が中心的な役割を果たしたことで、斯波御所の総大将に就きました。

戦国時代から統一政権へ

室町時代に入り、全国が戦国時代に突入します。奥羽では、三戸南部氏が本三戸城を拠点にしていました。本三戸城は、1539年の炎上により三戸町の三戸城へ移しました。三戸南部氏はその後、津軽や秋田大館地方を勢力下におき、八戸根城の南部氏をしのぐ北奥羽の有力な戦国大名となります。 1568年、織田信長が「天下布武」の号令の下、上洛を果たし戦国時代が終わろうとしていましたが、全国各地ではまだ戦いが行われていました。盛岡の南では、南部氏と斯波氏が争っていました。斯波氏は高水寺城を本拠に斯波郡、さらに大釜など岩手郡の一部や雫石盆地を勢力下に収めていました。猪去と雫石には猪去御所、雫石御所を置いていました。 北奥羽では南部信直が勢力を強めていきます。1588年には高水寺城を攻め、斯波氏を滅ぼします。そして南部氏が斯波氏の旧領を治めました。

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