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盛岡藩の誕生

奥羽仕置と九戸政実九戸政実の乱

織田信長が1582年(天正10年)の本能寺の変で明智光秀に討たれた後、1590年(天正18年)、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼしました。 その時、小田原に参陣しなかった奥羽地方の大名である大崎・葛西・和賀・稗貫氏らの所領を没収しました。その一方、早い段階で秀吉に恭順し、小田原征伐で積極的に協力した三戸の南部信直は宇都宮近くで秀吉から7郡の所領を認める朱印状を受けました。これが奥州仕置です。
しかし、それから3か月後、所領を没収された大名たちは次々と一揆を起こします。 そして、1591年(天正19年)正月には、秀吉軍の引き上げるのを待って、奥州仕置に納得しなかった南部氏の有力な一族である九戸政実が挙兵する事態にまで発展しました。これが九戸政実の乱です。 九戸政実は南部信直を苦しめ、戦いは長引きました。政実は秀吉に援軍を求め、息子の利直を京都に派遣し実情を訴えました。 秀吉はこれに応じ、10万人もの援軍を送り、九戸政実の九戸城を囲みました。九戸軍は最後まで粘り強く戦い続けましたが、9月に降伏します。政実は栗原郡三迫で処刑されました。 九戸城は信直の城となり、和賀・稗貫郡の領地も新しく与えられました。これによって、奥州の北部は、南部信直の所領となり、近世の新時代の基礎が出来上がってきました。

斯波氏滅亡から森岡城下町完成(寛永10年)までの年表

□1588年(天正16年7月) 南部信直、700の兵を率いて志和郡高水城を攻略し、斯波氏滅亡す。 □1590年(天正18年) ・大浦為信、離反して津軽独立す。 ・7月18日南部信直、秀吉小田原攻めに参陣し豊臣秀吉より南部内七郡の本領安堵の朱印状を得る。 ・豊臣秀吉により奥州仕置始まる。 仕置反対一揆、葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆起こる。 南部信直、和賀・稗貫一揆を鎮定。 伊達政宗、葛西・大崎一揆を鎮定するが大崎では6,000人を撫で斬にする。 □1591年(天正19年) ・九戸政実、二戸郡宮野城(九戸城)に反す。 奥州仕置軍下向して6万の兵で包囲し、政実以下を討滅させる。 ・このとき津軽の代地として、和賀、稗貫、志和の三郡を与えられて南部領10郡となる。 □1592年(文禄元年) ・浅野長政の勧めで不来方を居城と定める。 ・文禄の役起こる。 南部信直、朝鮮出兵のため50の兵を率いて九州名護屋城(唐津)に向かう。 ・南部領内の諸城を破却する。 □1597年(慶長2年) 森岡城築城始まる。総奉行南部利直。 加賀前田の家臣、内堀四郎兵衛を顧向として迎える。 □1598年(慶長3年) ・森岡城築城の認可下る。 ・文禄の役終わる。 ・豊臣秀吉没す。 ・12月、南部信直、京都伏見、南部屋敷より三戸に戻る。 このとき京都公家商人4名と銅の飾り職人3名を伴う。 □1599年(慶長4年) ・鎌津田甚六、鹿妻穴堰開削始まる。 ・9月信直、福岡城にて没す。世子利直継ぐ。 □1600年(慶長5年) ・この年早々、会津の上杉景勝、直江兼続が石田三成と結んで兵を挙げ、山形の最上義光を攻めた。 ・関ヶ原の戦。 徳川家康は上杉討伐のため、近国の諸大名に最上氏の救援を命じた。 また伊達政宗より横手の小野寺が上杉に身方しているので横手を攻めるよう命じてきた。利直は、兵4300で横手、山形に出陣し横手小野寺を包囲した。 すると和賀の和賀忠親は、伊達政宗の援助を受けて乱を起こし二子城に拠って花巻城を攻めた。花巻城は援軍を得て、和賀忠親は岩崎城に走った。 □1601年(慶長6年) ・3月利直は兵4500を率いて岩崎城を討伐、和賀忠親敗れて伊達領に走る。 ・報恩寺、三戸より森岡、現在地に移転される。 □1602年(慶長7年) ・伊達政宗、江刺・気仙の2郡と和賀郡を交換するよう申し出てきたが、利直、これを断る。 ・志和郡僧ヶ沢金山開発。北十左衛門、白根金山開発。 □1603年(慶長8年) 繋の湯守安楽院、手作り、8斗4升6合6勺を与えられる。 □1604年(慶長9年) 奥州街道に一里塚を築き、榎を植える。 □1608年(慶長13年) 森岡城完成し、城下町、京町、鋼屋町、大工町の町並み一応できあがる。 □1609年(慶長14年) 中津川上の橋に青銅擬宝珠を付ける。 □1611年(慶長16年) 中津川中の橋に青銅擬宝珠を付ける。 □1612年(慶長17年) ・中津川下の橋が完成する。 ・北山教浄寺を建立する。 □1613年(慶長18年) ・雫石繋で越前堰開削者、綾織越前広信没。 ・近江商人村井新七、森岡に定住するという。 □1614年(慶長19年10月) 大坂冬の陣起こる。利直5000の兵を率いて大坂に出陣。 □1615年(元和元年) ・大坂夏の陣起こる。利直再び大坂に出陣。 大坂方に味方していた北十左衛門を徳川家より引き渡され、森岡にて処刑。 ・森岡城下の侍町屋敷割りをする。 ・工藤一族、利直より糖部郡伊保内ほか200石を賜る。 ・この年、酒と麹の製造を制限。 ・利直、宮古湊を森岡の外湊として閉伊街道を整備。 □1616年(元和2年) 南部重信誕生。 □1617年(元和3年) 三戸城下の商人を森岡に移し、三戸町を建町する(日影門外小路)。 □1619年(元和5年) 北上川沿いの大清水に堤防を築く。 □1622年(元和8年) 丹波弥十郎、志和厚朴木金山を稼働。 □1624年(寛永元年) 三戸城下の全住民を森岡城下に移す。 □1625年(寛永2年) 南部藩の穀物舟(江戸廻米)が北上川をくだる。 □1627年(寛永4年) 八戸根城の八戸弥六郎直義を遠野へ移す。 □1630年(寛永7年) 秋田街道を整備し一里塚をおく。 □1633年(寛永10年) ・南部重直、森岡城を永代居城と定める。 ・森岡城下23町がほぼ完成し、町奉行を初めて置く。 この年寛永図(森岡城下、最初の地図)完成。 ・公儀領人、九州黒田藩重臣栗山大膳父子、南部藩に預けられ藩内の学問教養向上に貢献す。 □1634年(寛永11年) 幕府、南部氏10万石の軍役に定める。 □1635年(寛永12年) ・志和本誓寺、森岡城下に移る。 ・公儀領人、宗対馬守の従弟方規伯(方長老)南部藩預かり人となる。 (現榊山稲荷の庭はこの人が造ったもの)

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