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平泉時代と仏教

北上川流域における仏教文化の定着

平安時代の9世紀後半から10世紀頃にかけて、朝廷の蝦夷政策により北上川流域では、志波城、徳丹城、胆沢城が設置されました。 この過程において在地の豪族層により村々に寺院や仏堂が建設されていきました。 こうした平安期の寺院や仏堂は現仙台市、多賀城市付近から平泉を過ぎて盛岡市の間に多く存在しています。 安倍氏の奥六郡と呼ばれる北上川流域では、すでにこの時代に仏教文化は定着したと思われます。 安倍氏による一関骨寺遺跡、平泉の長者ヶ原廃寺遺跡、紫波町高水寺の十一面観音像、盛岡市玉山区東楽寺、十一面観音像、金剛力士像などの平安期の寺院跡や仏像が存在しており、定着が確認できます。

この世の終わり-末法思想と経塚の造営

仏教では、釈迦の立教から1,000年(500年とも)を正法、次の1,000年を像法、その後の10,000年を末法と言います。 末法の時代には釈迦の正しい教えが及ばなくなり、世の中に大きな乱れが生じると考えられていました。 この下降史観が末法思想です。 日本では、平安時代から現実味を帯びて考えられるようになりました。 とくに1052年(永承7年)が末法元年とされ、人々は恐れて厭世的思想に傾いていきます。 この時代は貴族政治や仏教界の腐敗の一方で、新たに武士が台頭しつつある動乱期であり、各地で治安が乱れました。 末法思想はこうした社会情勢とも重なり、有力者を中心に経典を埋納して未来に保存する事業が盛んになりました。 東北地方では、末法思想の流行が、前九年、後三年の合戦の時期とも重なり、この後、安倍氏、清原氏の領地を引き継いだ奥州藤原氏の国づくりのもと、藤原氏一門を中心に、経塚の造営が盛んに行われました。
盛岡市繋温泉一本松経塚 ここから出土している経壷は渥美灰釉壷で、平安時代末期、ちょうど藤原清衡、基衡の時代のものです。 繋、または雫石盆地内に住む有力者が造営したものと推定されます。
紫波町南日詰遺跡経塚 比瓜館と五郎沼の南方、南日詰遺跡内から発見された珠洲壷は、奥州藤原氏時代のものです。 日詰は藤原清衡の四男清綱の館があり居住していた所です。

金戒光明寺 地獄極楽図

浄土思想を一図で表現した地獄極楽図。 手前に地獄(左)と娑婆世界(右)が描かれています。 上方に海をへだてて描かれる極楽浄土は、無量光院とよく似ていることがわかります。 (重要文化財、京都・金戒光明寺蔵)
平泉の文化遺産の世界遺産化に向けクローズアップされた「浄土思想」。 だが、日本仏教・浄土思想史のながれにその思想がどのように位置付けられ、どう造形に反映しているのか?その合理的な説明は、必ずしもされてこなかった。 中尊寺仏教文化研究所主任の菅野成寛さんは、平泉藤原氏の十二世紀に特徴的な「天台本覚思想」との関連性を指摘。 平泉の浄土思想は「日本の十二世紀仏教思想のピークの一つ」であり、その典型的な造形として無量光院の構造を読み解く。 浄土とは、五世紀に漢訳された「浄土三部経」(「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」)によると「如来(仏)や菩薩が住む清浄な国土」の意味だ。 思想史的には来世浄土と現世浄土に大別されるが、平安時代中・後期は来世浄土=阿弥陀浄土信仰・文化が大流行した時代。 天台宗の高僧源信による「往生要集」(985年成立)が決定的な影響を及ぼし、全国各地に中尊寺金色堂はじめ阿弥陀堂が建立された。 浄土思想-岩手日報(2008年11月7日記事)】
 
 

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