中尊寺

中尊寺の歴史

□850年(嘉祥3年) 中尊寺は慈覚大師の創建と伝えられます。 それから250年ほど後 □1105年(長治2年) 後三年の合戦収束ののち、藤原(清原)清衡は江刺郡豊田館から平泉に移転、中尊寺造営に着手しました。 最初院とも号した多宝寺や大長寿院など、清衡は次々と大伽藍を完成させていきます。 □1124年(天治元年) 金色堂が完成しました。 堂内は、螺鈿や蒔絵、透かし彫りの金具で荘厳され、平安時代後期の工芸技術の粋を現代に伝えています。 □1126年(大治元年) 大法要を営み、その供養願文には「前九年、後三年合戦の犠牲者を、敵味方区別なく弔い、数多の御霊を浄土に導き、奥羽両国に平和な仏国土を築きたい」という不戦の願いがこめられました。 さらに平泉を中心として、南は白河から北は外ヶ浜までの道程の一町毎に、金色堂の阿弥陀如来を図絵した傘塔婆を建立しました。 こうした藤原清衡の意思は、基衡、秀衡、泰衡へと受け継がれ、寺院の整備に合わせて、街も拡大され、都市平泉が形成されていきます。 そして奥羽各地の村々には、阿弥陀堂などの寺院や神社が建立されました。

中尊寺建立供養願文

中尊寺を建立するにあたり清衡は、『中尊寺建立供養願文』というものを書いています。これは、争いのない平和な国にすることを誓った、宣誓書のようなものです。 【中尊寺建立供養願文-抜粋】 鐘の音は あらゆる世界に 分けへだてなく 響き渡り みな平等に苦しみを抜き去り 安楽を与える 攻めてきた官軍(都の軍隊)も守った蝦夷も 度重なる戦いで 命を落とした者は 古来幾多あったろうか いや みちのくおいては 人だけではなく けものや鳥や、魚、具も 昔も今もはかりしれないほど犠牲になっている 霊魂は皆 次の世の別な世界に移り去ったが 朽ちた骨は塵となって 今なおこの世に憾みを遺している 鐘の音が大地を動かす毎に 罪なく犠牲になった霊が 安らかな浄土に導かれますように(口語訳 大矢邦宣)
【泰衡の蓮】 □1189年(文治5年)9月 源頼朝が28万4千騎の兵を引き連れて、陣ヶ岡蜂神社に布陣していた。 そこへ河田次郎が泰衡を殺害しその首を持参した。 泰衡の首は頼朝によって検証された後、長らくさらし首にされていた。 その後ひそかに父秀衡の眠る中尊寺の金色堂に安置された。 その時、泰衡の親戚関係にある樋瓜氏が五郎沼に咲いていた蓮の花を泰衡の首桶の中にたむけた。 この蓮の花が種子となり820年を経て現代によみがえったものです。

関連記事