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盛岡ヒストリー 曲り家 蒼前神社 鹿妻穴堰


鹿妻穴堰開鑿記念碑

慶長2年8月起工 同4年2月竣工
大正2年6月12日建立
 鎌津田甚六君
碑文並染筆
新渡戸仙岳

鹿妻穴堰は南部藩の創設した最大の用水路であり、今日でも岩手県下最大の用水路である。
そもそも昔から箱ヶ森、南昌山から流れる沢水の量は北側が多く、南側は少ない。これは冬に雪が積もる量と関係がある。
太田、都南、矢巾、紫波地域は、沢水の量が少なく、平地でありながら水田を多くつくることができなかった。鹿妻穴堰が造られる以前は水争いの多い地域で有名であった。
不来方の地に南部氏が築城と同時に開発したのが鹿妻穴堰である。南部氏が武士、職人、商人など30,000人の城下町を営むためには、多くの食糧確保が必要であった。
今日の盛岡の繁栄の源は鹿妻穴堰によるものである。
 




安土桃山~江戸時代




 

鹿妻穴堰


鹿妻穴堰

鹿妻穴堰



 

<鹿妻穴堰>



鹿妻穴堰は南部藩の建設した最大の用水路であり、現在でも岩手県下最大の用水路です。
鹿妻穴堰の開設工事は盛岡城の築城と同じ、1597年(慶長2年)に始まり1599年(慶長4年)に、繋郷北ノ浦穴口より鹿妻郷まで一応の完成をみています。
南部氏が不来方の地に盛岡城を築城し、武士、商人、職人など30,000人の城下町を形成するためには城下近郊に食料基地を開拓し、城下の安定を図る必要がありました。
しかし雫石川と北上川をはさむ三角地帯は斯波氏所領の時代から平地でありながら箱ヶ森から流れる沢水の量が少なく、溜池を造り、田に引水している程度で米の生産量は極めて少ないものでした。
時あたかも、この繋北ノ浦穴口に現われたのが鎌津田甚六でした。
鎌津田甚六は小本、鎌津田の鉱山師で用水路を造ることが目的ではなく、当時繋北ノ浦、剣長嶺は金、銀、鉛の鉱脈があるという噂があり試掘のためでした。


 


剣長嶺と下は繋北ノ浦



 

<繋北ノ浦穴口は金、銀、鉛の鉱脈地帯!?>



慶長の初め頃、諸国巡回の旅の勧進僧、陸坊という者が、繋北ノ浦、大欠山、剣長嶺、湯坂峠に、金、銀、鉛の鉱脈があると宣伝して歩きました。
このため、繋の湯坂峠や北ノ浦地区に多くの鉱山師が集まり試掘が始まりました。
現在でもこの湯坂峠や大欠山地区には試掘の跡が残っています。
この鉱山師のなかに鎌津田甚六もいました。
鉱脈はとくに穴口付近に存在し、穴口の試掘は鎌津田甚六でした。
甚六は小本、鎌津田村の鉱山師で盛岡紙町の吉田甚之丞宅に出入りしていました。
そこで甚六は吉田甚之丞を通じ藩に採鉱と開田を兼ねて掘ることを提議しました。
つまり採鉱に失敗してもその跡は開田に利用できるというものでした。
結果は金は出ず、金が米に化けたというものでした。
鎌津田甚六に関する記述は繋村古文書「舘市家留書帳」、同繋村安楽院の記録「御領内記」、同村「瀬川家文書」に記述されています。

 


鹿妻穴堰



 

<鹿妻穴堰年表>



□ 1597年(慶長2年)
雫石繋郷北ノ浦、雫石川南岸剣長ヶ嶺の下に、上水口の穴堰の掘鑿くっさくを、鎌津田甚六の宰領さいりょうで始める。

□ 1599年(慶長4年)
繋郷北ノ浦穴口を鎌津田甚六が掘抜き、これにより東徳田伝法寺に至るまでこの水で田となる。

□ 1601年(慶長6年)
綾織越前広信、遠野綾織郷を去って雫石に転住、雫石郷、厨川郷に用水堰を掘って帰農する。

□ 1610年(慶長15年)
鎌津田甚六、刈屋三之丞とともに小国金山を経営す。
同年、綾織越前、厨川郷に根堰、繋郷に尾入堰を開通させる。

□ 1613年(慶長18年)
綾織越前広信死す。72才。

□ 1624年(寛永元年)
越前堰の開鑿完成。

□ 1644年(寛永21年)
大迫清右エ門、鹿妻穴堰の開鑿普請を申請し許可される。
(当時の藩営事業は商人の請け負い)

□ 1649年(慶安2年)
鎌津田甚六、大鹿妻堰を開鑿することを藩に出願し、工事始まる。

□ 1651年(慶安4年)
大鹿妻堰完成す。

□ 1662年(寛文2年)
藩は高橋善兵衛と鹿妻堰普請奉行に指令し配下足軽4人に鹿妻堰の修理を行う。

□ 1669年(寛文9年)
重直公「新田開発促進令」を発し、新堰工事、太田郷の地から、志和郡西部徳田の南方に至るまでの水田化を目標として、用水路の拡大延長に着手した。

□ 1670年(寛文10年)
紙町 吉田甚七、鹿妻堰の延長工事を百両で請け負い、完成したので太田方八丁に畑高10石を給され堰守となる。

□ 1671年(寛文11年)
太田郷と繋郷の界を定める。


 



鹿妻穴堰


鹿妻穴堰


 


鹿妻穴堰


 


鹿妻穴堰


 


鹿妻穴堰



 

<鹿妻明神社の由来>



北ノ浦の鹿妻明神社(穴口大明神社)は雫石郷繋村最東端の部落、北ノ浦の鎮守社として往古から崇敬されてきている古い神祠です。

□ 1759年(宝暦9年)
繋村正福院の調書、書き上げによれば、鹿妻明神社は、北ノ浦部落の鎮守社であり、羽黒派修験である繋林禰宣屋敷正福院の支配下にあり、鹿妻明神社の祭神を白蛇としている。

□ 1858年(安政5年)
同社の石碑面には8人の名が刻まれ、堰守吉田甚之丞が当主となり、用水受益者が鹿妻明神に鹿妻堰の無事を祈願し、水上大明神として崇敬している。
その後、この穴口堰用水の受益者たちは、同地の鎮守に用水堰無難を祈願し、五穀豊穣を願うようになった。


 



鹿妻穴堰


鹿妻穴堰


 


鹿妻穴堰




江戸時代




 

曲り家・盛岡手づくり村


曲り家・盛岡手づくり村

曲り家・盛岡手づくり村



 

<南部の曲り家>



曲り家とは一般的に、農家の住居の建て方が、母屋と厩屋がL字型で合体構成されて一軒をなす形態の住居です。
南部の曲り家の歴史は古く、発掘調査の結果江戸時代前期の遺構があり、発祥は江戸時代前期というだけで、正確な年代は不明です。
曲り家の分布は北は青森県県南の八戸地方から南は岩手県遠野、東和、和賀地方までで、旧盛岡藩領内にあります。
規模的にみると、盛岡市内、雫石町、滝沢村、紫波郡内に大規模な造作の曲り家が多く存在します。
南部の曲り家は、盛岡藩特有の農家の住居であり、希少価値の高いものです。

 


南部曲り家






 


南部曲り家







 

<曲り家の方向と位置>



曲り家は、南北の方向と位置づけがあり、L字型の角目、台所が真北です。
南側が庭で、人口、座敷、常居の部屋が造られます。
また北側には針葉樹が植えられ、南側には落葉樹が植えられます。
これは冬場は暖かく、、夏場は涼しくということです。
今で言えば環境型省エネ住宅です。

厩屋の位置は左手、あるいは逆手であったりして、基本的間取りは同じですが、厩屋のあり方で左右反対の間取りとなっており一定していません。

この古来の曲り家の考え方と今の近代住宅を組み合わせると、優れた環境省エネ住宅になると思われます。





 



曲り家・盛岡手づくり村


曲り家・盛岡手づくり村


 


曲り家・盛岡手づくり村



 

<北山葛右衛門>



屋根葺棟梁、北山葺右衛門は南部の曲り家の創建者といわれ、山城国(京都)北山出身の人です。
別名、屋根葺葛右衛門ともいいます。

□ 1646年(正保3年)
南部重信公、江戸において茅葺棟梁を召し抱え、雫石通り失櫃林に百石を給した。
屋根葺職人の棟梁とはいえ、平侍中級クラスの百石給与は当時としては異例であろう。
山城出身なら京都生まれの職人であり百石給与なら優遇である。
南部の曲り家は南部藩特有の建築物であり、南部曲り家を造成した人はこの棟梁葛右衛門以外にはないでしょう。
葛右衛門は盛岡屋根葺町に居住し、同町の検断を勤めていた。


 

<鳥山氏系図>



北山葛右衛門→鳥山半次郎
鳥山半次郎、始北山、実三嶋金左衛門政広二男、家督の後、願に依て鳥山氏に改む。


 


曲り家












籠屋敷

籠屋敷


籠屋敷



 

<籠屋敷>



住所 滝沢村大沢籠屋敷24

築100年以上は経過した南部曲り家です。
現在でも藤倉氏が居住しています。
南部曲り家は現在では展示保存建物になっていますが、ここだけは現在でも人が居住しており、大変めずらしいものです。
おそらく、人が居住している南部曲り家は、この籠屋敷が唯一のものでしょう。

 



籠屋敷


籠屋敷


 


籠屋敷



 

<チャグチャグ馬コ>



藤倉宅では現在でも厩に馬が飼育されています。
現在は農耕のためではなくチャグチャグ馬コで使用するためです。
毎年チャグチャグ馬コの日はこの籠屋敷からチャグチャグ馬コが出発します。
朝6時頃、南部曲り家とチャグチャグ馬コの写真を撮るために、多くのカメラマンが集まります。

 



籠屋敷


籠屋敷


 


籠屋敷












籠屋敷

雫石町歴史民俗資料館


籠屋敷



 

雫石町歴史民俗資料館 概要



■建設目的 御所ダム建設による水没を契機に、消滅していく歴史民族資料の保存と学習の場を目的として建設されました
■開館 昭和49年6月25日
■建設概要 構造:鉄筋コンクリート平屋建て
敷地面積:6,550m2/建設面積:380m2/床面積:330m2
■収蔵品 自然・考古・歴史・民族資料約2,000点
 




■建設目的 御所ダム建設による水没を契機に、消滅していく歴史民族資料の保存と学習の場を目的として建設されました
■開館 昭和49年6月25日
■建設概要 構造:鉄筋コンクリート平屋建て

敷地面積:6,550m2/建設面積:380m2/床面積:330m2
■収蔵品 自然・考古・歴史・民族資料約2,000点


 



雫石町歴史民俗資料館


雫石町歴史民俗資料館



 

雫石民俗資料館の特徴



<筏奉行、麻布、藍>

雫石川流域は室町、戦国時代より森林資源、とくに檜山、杉、雑木の豊富な地域でした。
このため南部氏は盛岡城築城と同時に、雫石川に筏いかだ奉行を配置して雫石川流域の木材の管理に務めました。
江戸時代初期では檜の産出が多く、雫石川→杉土手→石巻→仙台→水戸→江戸まで運ばれています。
また雑木は薪用として北上川下流域や石巻まで大量に運ばれていました。
また江戸中期に入ると雫石通りでは麻布、藍などが大量に生産されていました。
雫石民俗資料館では、こうした筏の資料や麻布、藍染などが展示されています。

 



雫石町歴史民俗資料館


雫石町歴史民俗資料館


 


雫石町歴史民俗資料館



 

曲り家



いろりを中心とし、馬を家族のように大切にした当時の農家の暮らしぶりが反映された造り。
南部(盛岡)藩にとくに多く造られたことから別名「南部曲り家」とも言われ、かつては雫石にも多く見られました。

■建築年代 明治初期
■移築年月 昭和47年12月
■寄贈者 川崎清悦氏
■面積 261.59m2
■構造 木造平屋建て・かやぶき屋根


 

水車小屋



■建築年代 明治初期
■移築年月 昭和48年10月
■寄贈者 代表 谷地愛作氏


 



雫石町歴史民俗資料館


雫石町歴史民俗資料館


 


雫石町歴史民俗資料館












鬼越蒼前神社

鬼越蒼前神社


鬼越蒼前神社



 

<蒼前神社>



「蒼前」とは、昔、東北地方にいた馬の治療法にすぐれた人の名前で、農神としてまつられ、馬の守り神であるといわれています。
農民信仰から生まれた産土神として「蒼前神社」があります。
蒼前詣りは「チャグチャグ馬コ祭り」として現代に伝わっています。
同じようなものに馬頭観音がありますが、馬頭観音は馬の供養が目的で、蒼前は馬の無病息災を祈ったものです。

農民が馬を家族同様に飼うようになって培われた愛馬精神から自然に生まれたのが「蒼前神社」をまつる信仰です。

江戸時代の始め滝沢村の鬼越一帯には南部藩が営んだ馬の放牧地があり、多くの馬が飼われていました。
滝沢村の鬼越蒼前神社は、馬の守護神として信仰の中心となりました。
これにより、愛馬を連れて蒼前神社をお参りして、馬の無病息災を祈る風習が生まれました。

 



鬼越蒼前神社


鬼越蒼前神社


 


チャグチャグ馬コ



 

<チャグチャグ馬コ-文化庁選定「記録作成等の措置を講ずべき民俗文化財」昭和53年1月31日選定>



みちのく岩手に初夏のさわやかな風が吹きわたる季節、シャグシャグと鈴の音もかろやかに、色とりどりの装束をつけた100頭近くの馬コが、馬の守護神を祀った「お蒼前さま」に集まってきます。
そして参拝をすませたあと、盛岡の八幡宮まで15kmの道のりを行列します。
馬につけられた大小の鈴から流れるシャグシャグという、にぎやかな鳴りひびく音色から、この行事の名称”チャグチャグ馬コ”の名が生まれました。

□ 1931年(昭和5年)
チャグチャグ馬コが盛岡八幡宮までパレードするようになったのは昭和5年からです。
たまたま秩父宮が盛岡においでになったとき、盛岡の八幡宮まで足を伸ばして、神前馬場でご覧になっていただいたのが始まりです。


 



鬼越蒼前神社


鬼越蒼前神社






開催日 毎年6月第2土曜日
TEL 019-684-2111(滝沢村役場)
順路と通過時刻 鬼越蒼前神社9:30→滝沢村役場10:05→青山町中央通商店会11:00着・11:20発→材木町12:10着・12:30発→盛岡駅12:40→桜山神社13:10→市役所13:35→中津川一部繋留中の橋13:40→プラザおでって~啄木・賢治青春館13:45→八幡宮13:55


 


鬼越蒼前神社












中級武士の武家屋敷

中級武士の武家屋敷


中級武士の武家屋敷



 

盛岡城下の武家屋敷は かや葺き屋根、曲り家建築



石川啄木新婚の家、および原敬生家は武家屋敷です。
この2つの武家屋敷は盛岡藩の中級士族以下の一般住宅で、2つの形があります。

 

盛岡藩の武家屋敷の特徴



南部盛岡藩の武家屋敷には2つの種類があり、一般の武家屋敷系と農家の南部曲り家系で、農家の曲り家に類似した建物です。
厩屋部分にあたる鍵型部分を台所、下部屋、土間、台所裏口に活用したL字型建造物が、中級以下の武家住宅の基本タイプです。

 



中級武士の武家屋敷


中級武士の武家屋敷





1778年(安永7年)新築諸士屋敷の普請についての制約令によると、家格によって建坪が制限されています。










禄高 建坪
200石~300石 51坪
150石~200石 43坪
100石~150石 41坪
50石~100石 30坪
以上、坪割に準じ玄関は目立たぬように造る事
50石以下 28坪
組附(同心屋敷) 20坪
以上、下屋、庇は勝手次第なるも玄関は無用たるべき事


1806年(文化3年)盛岡城下の武家屋敷数は650軒余。











武家屋敷(原敬生家)

武家屋敷(原敬生家)


武家屋敷(原敬生家)



 

<盛岡市指定有形文化財(建造物)平成7年4月26日指定>



この武家屋敷は盛岡が生んだ平民宰相原敬誕生の家です。
祖父にあたる原家第7代当主盛岡藩家老原直記芳隆が嘉永3年(1850)に大改築を行いました。
200坪もある大きな屋敷であり、藩主を迎えるために「御成座敷」も特別に作られました。
原敬は、安政3年(1856)この家で生まれ明治4年15歳で上京するまで生活し、少年期を形成しました。
その後、原敬の兄である第9代当主原恭が明治6年に御成座敷等不要となった部屋を廃却し、現在は直記の居間、次の間、隅の間、女中部屋など当時の5分の1が残っています。
原敬の生家として、また、この家の造りが幕末の嘉永3年の工法や用材を現在に伝え、萱葺き屋根とともに貴重な建造物であることから有形文化財に指定されています。





TEL 019-636-1192
FAX 019-636-1185
住所 〒020-0866 岩手県盛岡市本宮字熊堂93番地1号


 



武家屋敷(原敬生家)


武家屋敷(原敬生家)


 


武家屋敷(原敬生家)



 

<原敬生家 沿革の概要>



□ 1704年(寶永元年)
3代当主原茂平慶貴が、盛岡藩世子信恩公の廃立運動に連座し、家禄没収、追放の身になったとき、現在地に居を構えたといわれているが定かではない。

□ 1741年(寛保元年)
4代当主原平兵衛政芳が、雫石一帯の新田開発を願い下げ、現在の日影堰(昔の日陰堰・原堰)を開発した頃には、現在地に居を構えていたと思われる。

□ 1742年(寛保2年)
政芳が盛岡の向中野通り、上田通り、厨川通り、飯岡通り(1751年)の代官として勤めていたときは、代官所としても使われていた。
当時の原家人数目録によれば、知行百姓98人、家内召使49人(男33人、女16人)となっており、かなりの大邸宅であったことが想像される。

□ 1850年(嘉永3年)
7代当主原直記芳隆は、大増改築を行った。
250坪ほどの豪邸で、藩主を迎えるための「御成座敷」が設けられていた。

□ 1873年(明治6年)
9代当主原恭は、藩政時代に使用していた「御成座敷」等不要となった部分を廃し、居間、次の間、隅の間、女中部屋など5分の1を残すのみとなった。

□ 1924年(大正13年)
10代当主原彬氏より、財団法人「逸山記念資団」に寄付された。
応接間、玄関などが増改築され現存の景観となった。

□ 1952年(昭和27年)
財団法人「逸山記念資団」から、盛岡市に寄付された。

□ 1977年(昭和52年)
盛岡市歴史的保存建造物に指定された。

□ 1995年(平成7年)
盛岡市指定有形文化財(建造物)に指定された。


 



武家屋敷(原敬生家)


武家屋敷(原敬生家)


 



武家屋敷(原敬生家)


武家屋敷(原敬生家)


 


武家屋敷(原敬生家)


 


原家旧邸図


 


生家復元平面図



 



武家屋敷(原敬生家)


武家屋敷(原敬生家)


 


武家屋敷(原敬生家)




 

<上田邸>



滝沢村公民館に隣接する、南部藩士・上田氏の居宅。
建築は文化・文政年間(1804~1830年)と推定され、面積は約90m2。
重厚な茅葺き屋根を持ち、表座敷・奥座敷・次の間・常居・台所など盛岡藩一般武士の平均的な間取りが見られます。
明治22年から大正2年まで滝沢村役場庁舎として使われたこともあり、昭和48年(1973)に現地へ移築・復元されました。
藩士の生活を伝える貴重な建物です。


















開館時間 9:00~17:00
入館料 無料
TEL 019-687-2222(滝沢公民館)
アクセス 盛岡ICより車で約10分(8km)



 






















盛岡略年表


 

縄文・弥生・大和時代


B.C.6000~





奈良時代


749 勝宝元年

奥州から初めて黄金を献じた



770 宝亀元年

坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍とする



789 延暦8年

紀古佐美征討将軍、胆沢の地を大軍で攻めたが大敗



794 延暦13年

坂上田村麻呂を征夷副将軍に命じ胆沢の蝦夷を征す



797 延暦16年

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ず



平安時代


802 延暦21年

坂上田村麻呂、胆沢城を築く



803 延暦22年

坂上田村麻呂、志波城を築く。この年、征夷大将軍を辞職する



804 延暦23年

田村麻呂を征夷大将軍に再任する



811 弘仁2年

和我、稗縫、斯波の三郡建置。同年文室綿麻呂を征夷将軍に任ず



813 弘仁4年

徳丹城が設置される



1051 永承6年

安倍頼良そむき、源頼義を陸奥守に任じて追討す



1056 天喜4年

前九年の役おこる



1062 慶平5年

前九年の役おわる。源頼義、厨川柵にて安倍貞任、藤原経清を斬る



1081 永保元年

源義家、陸奥守に任命される



1083 永保3年

藤原清衡に伊沢・江刺・和賀、藤原家衡に稗貫・志波・岩手郡を分領させる。後三年の役はじまる



1087 寛治元年

源義家、金沢柵陥落し、清原氏滅亡する。後三年の役おわる



1089 寛治3年

藤原清衡、陸奥押領使となり、伊沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡を領し、江刺郡豊田館に居住す



1124 天治元年

藤原清衡、中尊寺金色堂を建立す



1126 大治元年

清衡、中尊寺金堂・三重塔などを建立す



1156 保元元年

保元の乱



1170 嘉応2年

藤原秀衡、鎮守将軍となる



1175 安元元年

藤原俊衡、樋瓜館に住む



1184 寿永3年

平兼盛、磐手郡滴石戸沢に移り住む



1187 文治3年

藤原秀衡、死去



1189 文治5年

奥州合戦、源頼朝、藤原泰衡を攻める。伊達郡阿津賀志山の合戦で、三沢安藤四郎の兵略によって奥州軍敗走。河田次郎の裏切りにより泰衡討たれる。葛西清重、頼朝より陸奥国御家人の奉行を命じられる。また津軽には宇佐美平次実政を惣地頭として派遣。頼朝、鎌倉へ帰途。工藤小次郎行光に岩手郡を与える



1190 建久元年

大川兼任の乱、泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とす



1192 建久2年

頼朝、東海道大将軍、千葉介常胤、東海道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る



鎌倉時代


1268 文永5年

足利尾張守家氏。斯波郡に下向。高水寺に在城す



1333 元弘3年

南部信長、岩手郡厨川の工藤氏を攻めて降す



1334 建武元年

北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷を給す



室町時代南北朝


1334 建武元年

建武の中興 鎮守府将軍北畠顕家、奥州津軽に下向。南部師行を郡代として八戸根城を築城。また子、顕成に津軽浪岡を所領として与える



1335 建武2年

足利尊氏、斯波家長を奥州管領として高水寺城に下向させる



1336 建武3年

十三湊安藤師季、八戸根城を攻撃



1338 延元3年

北畠顕家、南部師行、大阪、和泉、石津において戦死。十三湊、大津波に襲われる。藤崎城主安藤秀光、大光寺に入り大光寺氏を名乗る



1341 興国2年

北畠顕信、将軍となり、厨川合戦を発動す。この年顕信、滴石御所を開く。安藤師秀、八戸南部政長の勧誘に応じ南朝方となる



1392 明徳3年

南北両朝合体す



室町時代


1411 応永18年

三戸南部守行、秋田湊の安藤鹿季と出羽仙北に戦う



1418 応永25年

「関東大名南部」上洛。将軍義持に馬100頭・金1,000両を献上す。この後「本八戸城」築城か?



1423 応永30年

安藤陸奥守、新将軍義量就任の賀として馬20頭・鳥5,000羽・銭2万疋・海虎(ラッコ)の皮30枚・昆布500把を献上



1432 永享4年

十三湊、安藤盛季、康季南部守行に敗れ、蝦夷ヶ島に敗走。幕府、調停に乗りだす



1436 永享8年

八戸糖部南部、斯波で和賀氏と合戦す



1443 嘉吉3年

津軽十三湊、安藤義季、三戸南部義政に敗れ蝦夷地に敗走す



1445 文安2年

安藤義季、津軽西浜に上陸



1453 享徳2年

安藤義季、南部氏に敗れ自害



1454 享徳3年

湊安東政季、南部氏に敗れて函館に敗走す



1456 康正2年

安東政季、秋田に上陸し檜山城を築く



1467 応仁元年

浪岡北畠顕義、浪岡城築城



1470 文明2年

安東師季、津軽回復を目指し藤崎館を攻めるが成功せず



1491 延徳3年

南部久慈光信、津軽西浜種里城に入る



1492 明応元年

陸前国の大崎教兼が斯波郡の地頭職となる



1495 明応4年

大崎教兼の子、詮高、高水寺城に住む



1498 明応7年

南部光康、横内城(現青森市)を築城す



1502 文亀2年

南部久慈光信、大浦城を築き、嫡男盛信を置く



1521 大永元年

糠部南部氏と和賀氏、斯波郡の郡山で合戦す



1524 大永3年

三戸南部安信、津軽地方を平定す



1533 天文2年

南部安信の弟高信、津軽の反乱を鎮圧する。高信は津軽郡代に任じられ、石川城(後弘前城)に拠る



1537 天文6年

三戸南部氏、南部晴政、斯波の郡山で和賀氏と合戦、和賀氏敗退す



1539 天文8年

南部彦三郎安政、上洛、将軍義晴より偏諱をうけ晴政と改名



1540 天文9年

南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏新庄に敗走す



1545 天文14年

斯波氏、南部滴石城を攻略、三戸南部晴政軍敗れて三戸に退く



1562 永禄5年

檜山安東愛季、比内長岡城を攻め浅利則祐を自害させる



1567 永禄10年

大浦為信、義父為則の跡を継ぎ大浦城主となる



1569 永禄12年

安東愛季の軍勢、南部領鹿角郡に侵攻。南部石川高信これを破る



1571 元亀2年

大浦為信、石川城を攻略、石川高信、自害す



1572 元亀3年

斯波氏、南部晴政軍に敗れ、見前郷を失う。斯波氏、九戸政実の弟、弥五郎(高田吉兵衛)を女婿に迎える



安土・桃山時代


1578 天正6年

大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる



1579 天正7年

安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開



1582 天正10年

南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする



1583 天正11年

安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合



1585 天正13年

大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗



1586 天正14年

南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ



1588 天正16年

三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡



1589 天正17年

湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる



1590 天正18年

南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏



1591 天正19年

九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める



1592 文禄元年

南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる



1594 文禄3年

南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す



1597 慶長2年

盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる



1598 慶長3年

南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡



1599 慶長4年

南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる



1600 慶長5年

家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣



1601 慶長6年

利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡)



1602 慶長7年

鹿角白根金山が発見される



江戸時代


1614 慶長19年

利直、大阪冬の陣に出陣



1615 元和元年

大阪夏の陣おこる



1625 寛永元年

三戸旧城下の町民を盛岡に移す



1632 寛永9年

南部利直が江戸桜田邸で逝去す



1633 寛永10年

南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める








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