歴史・先人 斯波氏と高水寺城(下) 河村氏 河村氏の発祥の地は、相模国足柄上郡河村郷(現神奈川県足柄上郡山北町)といわれます。 藤原秀郷の十一世河村秀高の四男秀清が、陸奥河村氏の祖となりました。 □1180年(治承4年) 秀清の兄 義秀は石橋山の合戦で、平家方に味方したため、所領を没収され斬罪を申しつけられたが、母が政子の侍女となった京極の局であったことから許されて蟄居していた。 □1189年(文治5年) そこで、13才の千鶴丸は名を隠して、頼朝の奥州攻めに従軍した。 阿津賀志山の戦いで奪戦し、頼朝の目にとまり、加々美次郎長清が鳥帽子親となって元服して、名を「四郎秀清」と改めた。 論功行賞により、岩手郡・志波郡の北上川東部地区を与えられ、彦部の大巻館(現紫波町彦部大巻)に、本拠を構えた。 しかし秀清は拝領した領地に留まることなく相模国に戻り、一族の時秀の子、貞秀が配置され、その子孫が奥州河村氏の分流となった。 南北朝時代-河村氏南朝に属す □1340年(興国元年)春 南朝軍、陸奥介鎮守府将軍北畠顕信、吉野朝から奥州に出陣し、石巻の日和山城(葛西氏)に将軍府を置く。この年河村氏は南朝軍に属す。 □1341年(興国2年)3月 顕信将軍、八戸南部長政、滴石の戸沢、河村、和賀に対し北朝軍を対治指令し栗屋川合戦を発動す。 □1345年(興国6年)9月 顕信将軍、南出羽より岩手郡滴石に出陣。 同年、将軍南部長政に命じ、葛西、和賀、戸沢、川村等とともに斯波郡高水寺を攻める。 □1350年(正平5年)3月 顕信将軍、上田城合戦を指揮する。 □1352年(正平7年)7月 顕信将軍、滴石御所より福島県宇津峰城に移る。 □1356~1360年(延文年間) 河村氏、北朝斯波氏に対抗できなくなってくる。 □1392年(明徳3年) 南北朝合体す。 室町時代-河村氏斯波氏(足利氏)に属す □1396年(応永3年) 河村秀基、斯波氏に仕えて、佐比内、木更津村を与えられる。 以後、150年間斯波氏の下で平和な時代が続く。 川村氏の一族は繁栄し、大萱生氏、栃内氏、手代森氏、江柄氏、大巻氏、長内氏、日戸氏、玉山氏、川口氏、渋民氏、沼宮内氏、下田氏に分流した。 戦国時代-岩手郡内の川村氏、南部氏に仕える □1540年(天文9年)8月 三戸の南部晴政が叔父石川高信の献策によって岩手郡に勢力拡大を図り、高信を使者として岩手郡内の川村氏、工藤氏、戸沢氏に対し、三戸に参向して南部氏に服従することを誓うことを伝えた。 川村氏(下田、沼宮内、川口、渋民、玉山、日戸の諸氏)と厨川工藤氏(田頭、平館、葛巻の諸氏)はこの申し出に従った。しかし滴石戸沢政安はこれを拒否した。 これにより石川高信、滴石城を攻略、戸沢政安破れて角館に敗走する。 玉山館跡 所在地/岩手県盛岡市玉山区玉山字一笠 城内地区の古刹、東楽寺の北東にある山城です。 大館・小館の2つの館で構成されています。 大館は、東西約70m、南北約110mで、上から見ると台形の形をしています。 北川の小館は、東西約25m、南北約40mで、三角形の形をしています。 大館と小館の間には堀があります。 日戸館跡 所在地/岩手県盛岡市玉山区日戸字古屋敷 日戸館は、常光寺の西側にある山城です。 それぞれ堀で区切られた上館・中館・下館の3つの館からなり、館全体の大きさは、東西約200m、南北約100mになります。 日戸館は、河村一族の一人、日戸氏の居館です。 下田館跡 所在地/岩手県盛岡市玉山区下田字生出袋 下田館は、曹洞宗の寺院喜雲寺西側に隣接しています。 北上川、松川、生出川に三方を囲まれた館で、東西約100m、南北約200mの大きさです。 河村一族の一人、下田弥三郎秀祐の居館でした。 歴史・先人