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盛岡のはじまり(旧石器時代~弥生時代)

旧石器時代

今から2万年以上前、大陸と地続きだった日本列島に人類がやってきたと考えられています。 盛岡市の岩洞湖(岩洞ダム)のほとりにある小石川遺跡は、海面上昇によって現在の日本列島になった 約1万数千年前のものと考えられています。 石をたくみに打ち欠いて作られた槍の先につける尖頭器やナイフなどの石器、 石器をつくる際に出る剥片や石核が出土しました。 石材の中には、黒曜石や頁石といった、遠く西の奥羽山脈付近から持ち込まれたと考えられるものもありました。 小石川対岸の大橋遺跡でも、細かい石片を使った槍先や動物の皮なめしの石器などが発見されています。 旧石器時代と呼ばれる時代は、一カ所に定住することなく、食料となる動物や植物を求めて、 移動を繰り返す生活を送っていました。 この時代の人々は、厳しい自然の中で生き抜いていたのです。

縄文時代

旧石器時代の終わりごろには、土器が作られるようになります。 土器が作られるようになったことで、食料となる動植物の範囲を広げただけでなく、 温かい汁もので体を温めたり、栄養が向上し、食生活が豊かになりました。

縄文時代の始まり

盛岡で出土した最も古い土器は、縄文時代初めの代表的な遺跡である大新町遺跡で出土された爪形文土器です。 土器の表面には、爪で刻みがついており、底は丸みを帯びた尖底でした。 また、石器の数も多く、矢の先につける石鏃や矢柄を研ぐ砥石、ナイフ、穴をあけるドリルなど 種類も大変豊富でした。 反対に石槍などが減っていることから、狩りの方法の変化がうかがえます。 住居跡は、土器や石器が集中する場所が何ヶ所も見つかり、その場所でテントのような簡易住居で 暮らしていたことがうかがえます。多くの土器が残されており、ベースキャンプのように 繰り返し使われていたようです。 縄文時代早期に入ると、土器の底は尖り、小さな丸棒に線を刻んで回転させ菱形や格子目の文様をつける「押型文土器」、 細い棒で横や斜めに直線を引く「沈線文土器」、貝殻の縁を押しあて文様をつける「貝殻文土器」、 撚ったひもを回転して文様をつける「撚糸文土器」、ヘラ状工具を引いてはみ出し盛り上がった線を文様とする 「微隆起線文土器」などが出土しています。 この時期になると、竪穴式住居が造られるようになります。 住居の中にある炉で火を焚き、煮炊きや暖をとることができるようになり、定住生活に変化してきました。 また、温暖化によってドングリや栗などが増え、収穫した木の実をすりつぶすための石器も増えました。 このように安定した暮らしを送るようになることで、人口も次第に増えてきました。 盛岡には縄文時代早期の遺跡が多く、大新町遺跡・館坂遺跡・宿田遺跡からは、まとまって土器が出土され 全国的に例の少ない貴重な資料となっています。

縄文文化の発展

縄文時代中期になると、河川ごとに拠点的な大集落がつくられます。 繋遺跡、大館町遺跡、柿ノ木平遺跡、川目遺跡が代表で、たくさんの竪穴住居跡が重なり合い、 食料を貯蔵する巨大な穴も多数見つかっています。 大きな集落の中でも特に大きいのが、大館町遺跡です。約800年にもわたる長い間、 推定で延べ1000棟もの竪穴式住居が造られています。 ムラの中央には広場があり、長い期間同じ場所でムラのマツリが行われていました。 当時の平均寿命が30歳だったことを考え、世代交代を20年間隔とすると 40世代にもわたる長命の集落だったことがわかります。 また縄文時代中期には、美しい造形の土器が大量に作られるようになり、 その形も深鉢形・キャリパー形・樽形・浅鉢形・吊手付など種類が豊富です。 盛岡では特に「大木式」と呼ばれる独特の美しい渦巻き文様が特徴的です。 繋遺跡出土の深鉢形土器は国の重要文化財、柿ノ木平遺跡出土土器群は盛岡市の有形文化財に指定されています。  

縄文時代晩期

縄文時代の後期・晩期になると、気候が寒冷化しこれまでよりもやや低い土地に生活の中心を 移すようになりました。 代表的な遺跡のひとつが、現在は御所ダムに沈んでいる萪内遺跡があります。 雫石川の川岸に約800年から1000年の間、集落と墓地がセットになっていた遺跡です。 住居跡は50棟、墓は約1000基からなっていて、墓からは火葬された人骨も発見されています。 また墓地からは、ほぼ等身大の土偶も出土され、墓から縄文人の色々な風習を見ることができます。 様々な木製品や食料獲得のための石器なども大量に出土し、 縄文時代の生活が一遺跡で確認できる遺跡として注目されています。 また、縄文時代晩期には、細かい文様の大洞式土器が多くつくられ、玉山地区の宇登1遺跡からは土面、 都南地区の手代森遺跡からは大型遮光器土偶(国指定重要文化財)といった祭祀の道具が出土しています。

弥生時代

弥生時代には日本列島で農耕が本格的に始まります。 しかし農耕は気候によって左右されるため、西日本、東日本、北日本で異なった弥生文化となりました。 西日本は米作りの生産力が高かったため、富を蓄え権力を持つ者が現れるようになり、 身分の差がはっきりするようになります。 また北になるほど、狩猟や植物採集の割合が高く、縄文時代の生活が色濃く残されていました。 弥生時代の開始も、最も早かった九州北部の紀元前900年頃と、 最も遅かった東日本では700年もの開きがありました。 稲作の技術は早い段階で青森県にも伝えられ、水田跡が発見されるとともに、 「遠賀川式」と呼ばれる大形の壺形土器が出土しています。 しかし気候が不安定なため東北北部では稲作は定着せず、東北南部より南に限られました。 そのため、盛岡では弥生時代の遺跡の発見が少なく、水田跡も見つかっていません。 弥生時代後期になっても発見されている遺跡数は少なく、 人々は痕跡をあまり残さない移動性・交易性の高い生活をしていたと考えられます。 東北南部で地方豪族により大形古墳が築かれ、古墳文化が広まるようになっても、 東北北部までその影響はほとんど及びませんでした。

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