盛岡ヒストリー 平安末期~安土桃山 戸沢氏・滴石城 雫石氏・雫石城
山形新庄戸沢藩 発祥の地、”滴石”
1156年(保元元年)保元の乱、平忠正、平清盛と戦い、敗れて子と共に京都六条河原で斬罪、忠正の子 四男通正も処刑されました。通正の妻は吉野尾輪に逃避し、そこで男子を産み平新と名付け、これがのちの尾輪平新です。
尾輪平新は平家の殺害を恐れて、1184年(寿永3年)奥州藤原秀衡をたよって奥州に下向しました。
秀衡は平新を滴石荘の樋山弾正良正に預け平衡盛を名乗りました。
良正には嗣子がなく平衡盛に娘を娶らせ、滴石戸沢郷に移住させ、のちに平衡盛は戸沢衡盛と改姓しました。
1189年(文治5年)源頼朝の奥州藤原氏討伐の際は、頼朝に敵対せず、北陸道軍を安全に通過させ、この功により戸沢衡盛は滴石の領地を安堵されました。
1191年(建久2年)、大河兼任の乱が起きると、頼朝の命令により長男兼盛が総大将 足利義兼に従いました。この功により仙北郡四千六百町を拝領しました。
<保元の乱-平安時代>
□ 1156年(保元元年)
平忠正、崇徳上皇方に味方し平清盛と戦う。
忠正は源為義と並ぶ上皇方の重鎮として活躍したが敗北。
忠正は捕らえられ、後日、長盛、忠綱、正綱、通正の4子が自首。
しかし平清盛は親子5人をあっさりと京都六条河原で処刑してしまった。
この4男通正の妻は吉野に逃れた。
この時の通正の妻は身ごもっており、吉野で生まれたのが平衡盛である。
忠正は源為義と並ぶ上皇方の重鎮として活躍したが敗北。
忠正は捕らえられ、後日、長盛、忠綱、正綱、通正の4子が自首。
しかし平清盛は親子5人をあっさりと京都六条河原で処刑してしまった。
この4男通正の妻は吉野に逃れた。
この時の通正の妻は身ごもっており、吉野で生まれたのが平衡盛である。
□ 1184年(寿永3年)
平衡盛は大和国吉野より奥州に下向し、奥州藤原氏の庄園、滴石荘の荘司、樋山弾正良正の許しにより滴石に身を寄せた。
その後、良正は衡盛を滴石庄戸沢に居住させ娘を娶した。
良正には男の子がなく、衡盛がその跡を継ぎ、その地(戸沢、下田、隠明神、田口、長山、綱木(繋))を領有した。
この時戸沢と改名した。
その後、良正は衡盛を滴石庄戸沢に居住させ娘を娶した。
良正には男の子がなく、衡盛がその跡を継ぎ、その地(戸沢、下田、隠明神、田口、長山、綱木(繋))を領有した。
この時戸沢と改名した。
□ 1187年(文治3年)
奥州藤原氏、鎮守府将軍、藤原秀衡死去。
樋山氏や戸沢氏初期の城館とされている滴石古館
<山形、新庄戸沢藩発祥の地-鎌倉時代>
□ 1189年(文治5年)
奥州合戦、奥州藤原氏滅亡す。
頼朝の北陸道軍、国見峠を越えて、戸沢氏と敵対することなく滴石を通り陣ヶ岡に到着した。
戸沢衡盛は、滴石庄(戸沢、下田、隠明神、田口、綱木)を安堵され、秋田仙北郡4,600町を与えられた。
頼朝の北陸道軍、国見峠を越えて、戸沢氏と敵対することなく滴石を通り陣ヶ岡に到着した。
戸沢衡盛は、滴石庄(戸沢、下田、隠明神、田口、綱木)を安堵され、秋田仙北郡4,600町を与えられた。
□ 1192年(建久3年)
戸沢衡盛、鎌倉幕府の御家人となり、従五位下飛騨守に叙任される。
□ 1204年(元久元年)
源実朝が暗殺され、北条時政執権となる。
□ 1206年(建永元年)
2代目兼盛、秋田仙北郡門屋小館に移住す。
□ 1220年(承久2年)
兼盛、門屋小館より門屋に移住す。
□ 1228年(安貞2年)
門屋城築城。
※ 鎌倉時代中期以降になると北条得宗家に権力が集中するようになり、得宗家の家臣になるものが続出しました。
戸沢氏も北条氏の家臣となり滴石庄も北条得宗領となっていきました。
またこの時期は開墾が進み米の生産力が高まりました。
※ 鎌倉時代中期以降になると北条得宗家に権力が集中するようになり、得宗家の家臣になるものが続出しました。
戸沢氏も北条氏の家臣となり滴石庄も北条得宗領となっていきました。
またこの時期は開墾が進み米の生産力が高まりました。
□ 1333年(正慶2年)
鎌倉幕府滅亡す。
同年北畠顕家陸奥守となり、また南部師行を糖部郡代とし奥州に下向す。
戸沢氏盛、顕家に従う。
北条方の岩手郡厨川の工藤氏これに従わず。
師行の弟 南部信長、工藤氏を攻め落とし、地頭職を取り上げる。
南部氏・工藤氏の見張りとして福士氏を代官として不来方に置く。
同年北畠顕家陸奥守となり、また南部師行を糖部郡代とし奥州に下向す。
戸沢氏盛、顕家に従う。
北条方の岩手郡厨川の工藤氏これに従わず。
師行の弟 南部信長、工藤氏を攻め落とし、地頭職を取り上げる。
南部氏・工藤氏の見張りとして福士氏を代官として不来方に置く。
戸沢館
田屋館
<南北朝>
□ 1334年(建武元年)
建武の中興
後醍醐天皇は北畠顕家を陸奥守に任じ、奥州多賀国府に下向させる。
南部師行を糖部郡代として八戸根城を築城。
また、子 顕成に津軽浪岡を所領として与える。
後醍醐天皇は北畠顕家を陸奥守に任じ、奥州多賀国府に下向させる。
南部師行を糖部郡代として八戸根城を築城。
また、子 顕成に津軽浪岡を所領として与える。
□ 1335年(建武2年)
足利尊氏、建武の中興の新政に反逆して、一族斯波高経の子、斯波家長を奥州管領として斯波高水寺に下向させた。
□ 1336年(延元元年)
尊氏、京都に戻り北朝の天皇を擁立。
後醍醐天皇吉野へ行幸し南朝を成立させる。
後醍醐天皇吉野へ行幸し南朝を成立させる。
□ 1337年(延元2年)
後醍醐天皇、北畠顕家を鎮守府将軍に任じ二度奥州に下向させる。
□ 1338年(延元3年)
南朝の師、北畠親房は泉州石津の戦いで長男 顕家を失う。
滴石城跡
<保元の乱-平安時代>
□ 1156年(保元元年)
平忠正、崇徳上皇方に味方し平清盛と戦う。
忠正は源為義と並ぶ上皇方の重鎮として活躍したが敗北。
忠正は捕らえられ、後日、長盛、忠綱、正綱、通正の4子が自首。
しかし平清盛は親子5人をあっさりと京都六条河原で処刑してしまった。
この4男通正の妻は吉野に逃れた。
この時の通正の妻は身ごもっており、吉野で生まれたのが平衡盛である。
忠正は源為義と並ぶ上皇方の重鎮として活躍したが敗北。
忠正は捕らえられ、後日、長盛、忠綱、正綱、通正の4子が自首。
しかし平清盛は親子5人をあっさりと京都六条河原で処刑してしまった。
この4男通正の妻は吉野に逃れた。
この時の通正の妻は身ごもっており、吉野で生まれたのが平衡盛である。
□ 1184年(寿永3年)
平衡盛は大和国吉野より奥州に下向し、奥州藤原氏の庄園、滴石荘の荘司、樋山弾正良正の許しにより滴石に身を寄せた。
その後、良正は衡盛を滴石庄戸沢に居住させ娘を娶した。
良正には男の子がなく、衡盛がその跡を継ぎ、その地(戸沢、下田、隠明神、田口、長山、綱木(繋))を領有した。
この時戸沢と改名した。
その後、良正は衡盛を滴石庄戸沢に居住させ娘を娶した。
良正には男の子がなく、衡盛がその跡を継ぎ、その地(戸沢、下田、隠明神、田口、長山、綱木(繋))を領有した。
この時戸沢と改名した。
□ 1187年(文治3年)
奥州藤原氏、鎮守府将軍、藤原秀衡死去。
樋山氏や戸沢氏初期の城館とされている滴石古館
<北畠三御所-滴石御所>
「津軽浪岡御所」「閉伊袰綿御所」「岩手滴石御所」を北畠三御所といいます。
南北朝時代、南朝の師、北畠親房の次男、陸奥介鎮守府将軍北畠顕信公は1346年(正平元年)春から1352年(正平7年)7月までの約7年間、当地岩手郡滴石大字綱木(つなぎ)の地に駐留し、南朝軍(八戸南部氏、滴石戸沢氏、和賀氏、河村氏)の指揮に当たり上田城合戦を起こしました。
このとき顕信の居住地を滴石御所と称し、これが現在の御所の地名の起こりとなっています。
現在、雫石町繋字元御所の地名もあります。
この元御所はほとんどがダムに沈んでしまいましたが、ここには「将軍屋敷」「君屋敷」「刑部屋敷」「寺屋敷」という地名がありました。
舘市館
<戸沢政安、三戸南部晴政、石川高信に敗れる>
□ 1394年(応永元年)
綱木藤倉神社創建
□ 1423年(応永30年)
戸沢氏宗家は横手小野寺氏の攻撃が激しくなってきたため滴石城から仙北郡門屋城に移った。
□ 1424年(応永31年)
戸沢宗家、本城を門屋城から角館城に移す。
□ 1532年(天文元年)
これより以前に城の配置替えが行われており、天文元年頃は一族の戸沢十郎政安は戸沢館で、綱木舘市館城主手塚左衛門尉は滴石城主で、綱木舘市館城主は同一族の高橋出雲であった。
□ 1540年(天文9年)8月
三戸南部晴政は叔父 石川高信の献策により岩手郡を狙わせた。
川村氏(沼宮内、川口、渋民、玉山の各氏)と工藤氏(田頭、平館各氏)はこれに従ったが滴石戸沢政安はこれに応じなかった。
高信は福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸、玉山、工藤氏とともに大挙して滴石を攻めた。
高信は滴石城と戸沢館を火攻めにし町ごと焼き払った。
戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城に戦ったが敗れ、手塚氏は討死。長山氏は自らの手で長山城を焼き、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ちた。
川村氏(沼宮内、川口、渋民、玉山の各氏)と工藤氏(田頭、平館各氏)はこれに従ったが滴石戸沢政安はこれに応じなかった。
高信は福士伊勢、一方井刑部左衛門、日戸、玉山、工藤氏とともに大挙して滴石を攻めた。
高信は滴石城と戸沢館を火攻めにし町ごと焼き払った。
戸沢政安は、手塚氏、長山氏とともに滴石城に戦ったが敗れ、手塚氏は討死。長山氏は自らの手で長山城を焼き、戸沢十郎政安と一部の家臣は角館城に落ちた。
<戸沢神社>
戸沢五郎の創建と伝えられていますが、年代は不詳。
祭神に虚空蔵様、八幡様、昆沙門天を合祀しています。
弁財天は戸沢公の奥方を祀ったものといわれます。
南部実光と戦い落城のとき、稲籾童子を抱き沼の中というところに身を沈めたと伝えられ、それより弁財天として祀っているということです。
戸沢氏の居所、沼の平がなまり、沼田神社になったといわれています。
<藤倉神社>
繋字舘市内に所在。
戸沢氏の一族、高橋氏の創建。
1394年(応永元年)。
戸沢神社と同じく昆沙門天が祀られています。
藤倉神社の前には清水が湧き、樹齢1,000年以上と思われる桂の樹根があります。
藤倉神社の祭礼は、太刀をつけて山の神舞をするのが古例です。
戸沢神社
藤倉神社
<戸沢氏家臣団と家臣その後>
戸沢氏家臣団は手塚氏、長山氏、木村氏、田口氏、舘市(高橋)氏、用の沢氏、橋場氏が知られています。
それぞれ城館があったと思われますが一部を除いて不明です。
城主戸沢政安が仙北角館城に落ちたときは、一部の家臣は一緒に仙北に移ったようですが、残った家臣も多く、この残った家臣団が高水寺城斯波氏を受け入れ、斯波雫石氏の時代を築きます。
多賀神社
<多賀神社>
雫石町御明神にある神社で近江明神とも呼ばれた旧村社。
承元(1207~1210年)の頃、佐々木盛綱の家臣、木村太郎四郎が近江の国を去るとき、多賀明神(現滋賀県犬上郡多賀町)の神剣を持参、百姓左近の娘と縁組し勧請した、御明神の村名の源といいます。
<大館城>
雫石町大字御明神字山津田の大館山に所在し、大規模な山城です。
南北朝時代戸沢氏の築城と考えられています。
常時城主が居住した城とするには無理があり、仙北門屋城との連絡や有事の際の詰めの城や逃城的な防禦に使用されたと考えるのが妥当な城です。
<長山館>
雫石町大字長山字岩井花に所在し、別名岩井花館とも呼ばれています。
戸沢氏の一族長山氏の居館とされています。
1540年(応永31年)石川高信に攻められたときは自らの手で城を焼き払って、戸沢政安とともに角館に落ちたとされています。
<舘市館>
盛岡市繋字舘市に所在し、別名繋古館とも呼ばれ、南北朝時代の滴石城の支城と考えられます。
館主は滴石戸沢氏の一族手塚伊織と伝えられます。
戸沢宗家が角館に移ると手塚氏は滴石城主に、舘市館は同族の家臣高橋出雲になりました。
1586年(天正14年)の南部信直による雫石城攻略時には、館市出雲守が居住し、南部信直の人質となっています。
<田口館>
盛岡市繋字湯の館に所在し、別名湯の館とも呼ばれています。築城時期は不明です。
館主は戸沢氏の家臣田口氏で綱木萪内を所領していました。
1613年(慶長18年)南部利直から旧領を含めた350石の地行地を下繋に拝領。
1614年(慶長19年10月)大坂冬の陣に利直に従って出陣。
翌1615年(元和元年)再度利直に従って大坂夏の陣に出陣し、功績により利直公より田沢湖町生保内おぼないを増加拝領。
繋より田沢湖生保内に移住し現在に至っています。
<八幡宮>
雫石城址にある八幡宮は滴石城主手塚左衛門の氏神でした。
1586年(天正14年)、南部信直によって雫石城は攻略され、1592年(天正20年)豊臣秀吉の命令によって城が破壊され神社も廃社となりました。
その後雫石氏の遺臣古館氏等によって再建されました。
1953年(昭和28年9月)雫石氏の後裔で宮野目村の雫石誠介氏の氏神から金属製で2寸程の御神体を遷座して現在に至っています。
御所湖
<戸沢氏伝説-野菊は二度咲く>
大昔、滴石の野中に野菊という美女がいて滴石城のお殿様に召され、寵愛を受けていました。
ある年、城中で酒宴があったとき、野菊は思わず放屁をしてしまいました。
殿様は立腹なさり、野菊を城中より追い出してしまいました。
野菊は野中に帰り小屋を建て暮らしていました。
そして間もなく男の子を産みました。
その後10年ばかりたってから、お城の近くを「黄金のなる瓢箪の種はいらんかね」といって種物を売って歩く少年がいました。
賢そうな気品のある少年です。
城中でこの声を聞いた殿様は、その少年を呼び寄せて、怒った顔で「でたらめを言ってはならん。本当に黄金の瓢箪がなるのか」とたずねました。
少年は悪びれもせずに殿様を見つめ「はい、きっとなります。ただ一生に一度も放屁しない人が撒かなければなりません」と言いました。
殿様は笑って「一生に一度も放屁しない者などある筈がない」と言うと、少年はキッとした表情で「ではなぜ、私の母をお城から追い出したのですか」と言いました。
この少年が自分の子供であることが分かった殿様は、野菊親子を再び城中に迎えたと言います。
雫石の祝い歌に「雫石は名所どこ野菊の花は二度咲く」とあるのはこのことを唄ったものと言われています。
野中
野菊公園
戦国時代の岩手郡、紫波郡の概要
<戦国時代の岩手郡、紫波郡>
戦国時代の岩手郡、紫波郡には6つの大きな主力の城がありました。
紫波郡は、
「川村氏の大巻城」
「斯波氏の高水寺城」
の2つ。
岩手郡には、
「福士氏の不来方城(現盛岡市)」
「工藤氏の厨川城(現盛岡市安倍館)」
「川村氏の下田城(現盛岡市玉山区)」
「雫石氏の雫石城」
の4つ。
川村氏、工藤氏、福士氏は三戸南部側で、雫石氏は斯波氏で、両者の攻防戦は長期に渡っていました。
斯波氏は雫石に進出し、一方南部方の工藤氏の厨川城は室町時代までは現盛岡市天昌寺(里館)でしたが、戦国時代に入ると、斯波氏との攻防戦が長期に渡ることを予期して現盛岡市安倍館に新厨川城を築城しました。
さらにこれら主力城主の下に家臣団の小城がいくつも存在しました。
紫波町高水寺城
戦国時代
資料提供 – 雫石教育委員会
雫石氏・雫石城
<斯波詮貞、滴石に入り雫石詮貞を名乗り、「斯波雫石御所」を開く。これにより斯波氏66郷を領す>
□ 1545年(天文14年)
斯波詮真、岩手郡の太田、滴石を攻撃したが南部軍の石川高信に敗れて退却する。
□ 1546年(天文15年)
斯波詮真、岩手郡、太田、滴石を2度目の攻略により占領す。
同年末、滴石を雫石に改称し、詮高の二男詮貞を雫石城主にし、戸沢氏の継承とする。
また三男詮義を太田猪去に配置した。
これにより斯波氏、雫石郷三千貫文を領す。
同年末、滴石を雫石に改称し、詮高の二男詮貞を雫石城主にし、戸沢氏の継承とする。
また三男詮義を太田猪去に配置した。
これにより斯波氏、雫石郷三千貫文を領す。
□ 1549年(天文18年)
斯波詮高、南部領(福士領)向中野、本宮を攻略。これにより雫石川下流域はすべて斯波氏の所領となる。
現在の雫石城と秋田新幹線こまち
<衰退への道>
□ 1571年(元亀2年)
見前郷で斯波氏農民と南部氏農民の間で紛争が生じる。
□ 1572年(元亀3年)
○ 南部軍斯波郡に進攻し、斯波軍敗れて見前郷を失う。
○ 同年4月斯波御所の要請により遠野城主阿曽沼孫三郎広長の二男綾織越前広信を雫石氏の軍事顧問として招く。
広信、雫石城の改修工事と土樋堰水の工事に入る。
○ 斯波氏は南部氏の支族、九戸政実の弟、弥五郎を娘婿に迎え、知行として高田村を与えた。
弥五郎は高田吉兵衛と改名した。
○ 同年4月斯波御所の要請により遠野城主阿曽沼孫三郎広長の二男綾織越前広信を雫石氏の軍事顧問として招く。
広信、雫石城の改修工事と土樋堰水の工事に入る。
○ 斯波氏は南部氏の支族、九戸政実の弟、弥五郎を娘婿に迎え、知行として高田村を与えた。
弥五郎は高田吉兵衛と改名した。
□ 1573年(天正元年)春
○ 九戸実政、雫石詮貴のところへ晴山治部忠房を遣わし加担するように口上を伝えた。
詮貴は容易に領掌し200の手勢で厨川工藤氏の所領太田、大釜の両館を焼き払い、ただちに不来方城の福士氏を攻めたが後難を恐れて引き払った。
○ 同年7月、征夷大将軍足利義昭、槙島城にて織田信長に敗れて室町幕府事実上滅亡す。
義昭、京都を追放される。
これにより斯波氏、後ろ盾を失う。
詮貴は容易に領掌し200の手勢で厨川工藤氏の所領太田、大釜の両館を焼き払い、ただちに不来方城の福士氏を攻めたが後難を恐れて引き払った。
○ 同年7月、征夷大将軍足利義昭、槙島城にて織田信長に敗れて室町幕府事実上滅亡す。
義昭、京都を追放される。
これにより斯波氏、後ろ盾を失う。
□ 1575年(天正3年)
軍師綾織越前、雫石城改修工事完了、土樋堰水、雫石城に達し完了。
□ 1576年(天正4年)
雫石詮貴、軍師綾織越前を厨川工藤氏、川村氏の備えとして、大釜篠木に配置し、「越前堰」を掘らせる。
雫石城本丸跡
雫石城本丸跡
<雫石城落城>
□ 1582年(天正10年)
南部晴政死去す。
田子城主南部信直を三戸城主に迎える。
田子城主南部信直を三戸城主に迎える。
□ 1583年(天正11年)
南部信直、斯波の大萱生氏を攻撃す。
□ 1584年(天正12年)
信直、川村、田頭、沼宮内、川口の諸氏200騎で雫石城北方の名子の台地に陣を敷いたが1日で引き上げた。
□ 1585年(天正13年)
信直、再度200騎の兵で晴山に陣を敷いたが1日で引き上げた。
□ 1586年(天正14年)
○ 斯波高田城主で斯波氏一族の高田吉兵衛が離反して三戸南部に属す。
信直、高田吉兵衛を岩手郡中野館に駐在させて斯波勢の押さえとする。
斯波軍、岩手郡に進攻したが撃退される。
○ 同年9月29日、雫石城、信直に3度目の攻撃を受けた。
そこで雫石久詮は、繋舘市城主高橋出雲を三戸に送って和を請うたが、許されずに攻撃を受けることになった。
○ 雫石城主久詮は、雫石城を戸沢氏家臣、手塚左京に譲り、斯波高水寺城に退却した。
○ その後、手塚氏は繋舘市城に退却したため雫石城を守るのは百姓達ばかりとなって雫石城は落城した。
三戸に出向した高橋出雲は人質となっていたが返され、一方手塚左京は仙北角館に落ちた。
信直、高田吉兵衛を岩手郡中野館に駐在させて斯波勢の押さえとする。
斯波軍、岩手郡に進攻したが撃退される。
○ 同年9月29日、雫石城、信直に3度目の攻撃を受けた。
そこで雫石久詮は、繋舘市城主高橋出雲を三戸に送って和を請うたが、許されずに攻撃を受けることになった。
○ 雫石城主久詮は、雫石城を戸沢氏家臣、手塚左京に譲り、斯波高水寺城に退却した。
○ その後、手塚氏は繋舘市城に退却したため雫石城を守るのは百姓達ばかりとなって雫石城は落城した。
三戸に出向した高橋出雲は人質となっていたが返され、一方手塚左京は仙北角館に落ちた。
□ 1591年(天正19年)
南部信直、雫石城に八日町太郎兵衛を配置す。
同年秀吉の一領主一城の方針により雫石城は破却された。
同年秀吉の一領主一城の方針により雫石城は破却された。
綾織越前の碑
盛岡略年表
縄文・弥生・大和時代
B.C.6000~
奈良時代
749 勝宝元年
奥州から初めて黄金を献じた
770 宝亀元年
坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍とする
789 延暦8年
紀古佐美征討将軍、胆沢の地を大軍で攻めたが大敗
794 延暦13年
坂上田村麻呂を征夷副将軍に命じ胆沢の蝦夷を征す
797 延暦16年
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ず
平安時代
802 延暦21年
坂上田村麻呂、胆沢城を築く
803 延暦22年
坂上田村麻呂、志波城を築く。この年、征夷大将軍を辞職する
804 延暦23年
田村麻呂を征夷大将軍に再任する
811 弘仁2年
和我、稗縫、斯波の三郡建置。同年文室綿麻呂を征夷将軍に任ず
813 弘仁4年
徳丹城が設置される
1051 永承6年
安倍頼良そむき、源頼義を陸奥守に任じて追討す
1056 天喜4年
前九年の役おこる
1062 慶平5年
前九年の役おわる。源頼義、厨川柵にて安倍貞任、藤原経清を斬る
1081 永保元年
源義家、陸奥守に任命される
1083 永保3年
藤原清衡に伊沢・江刺・和賀、藤原家衡に稗貫・志波・岩手郡を分領させる。後三年の役はじまる
1087 寛治元年
源義家、金沢柵陥落し、清原氏滅亡する。後三年の役おわる
1089 寛治3年
藤原清衡、陸奥押領使となり、伊沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡を領し、江刺郡豊田館に居住す
1124 天治元年
藤原清衡、中尊寺金色堂を建立す
1126 大治元年
清衡、中尊寺金堂・三重塔などを建立す
1156 保元元年
保元の乱
1170 嘉応2年
藤原秀衡、鎮守将軍となる
1175 安元元年
藤原俊衡、樋瓜館に住む
1184 寿永3年
平兼盛、磐手郡滴石戸沢に移り住む
1187 文治3年
藤原秀衡、死去
1189 文治5年
奥州合戦、源頼朝、藤原泰衡を攻める。伊達郡阿津賀志山の合戦で、三沢安藤四郎の兵略によって奥州軍敗走。河田次郎の裏切りにより泰衡討たれる。葛西清重、頼朝より陸奥国御家人の奉行を命じられる。また津軽には宇佐美平次実政を惣地頭として派遣。頼朝、鎌倉へ帰途。工藤小次郎行光に岩手郡を与える
1190 建久元年
大川兼任の乱、泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とす
1192 建久2年
頼朝、東海道大将軍、千葉介常胤、東海道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る
鎌倉時代
1268 文永5年
足利尾張守家氏。斯波郡に下向。高水寺に在城す
1333 元弘3年
南部信長、岩手郡厨川の工藤氏を攻めて降す
1334 建武元年
北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷を給す
室町時代南北朝
1334 建武元年
建武の中興 鎮守府将軍北畠顕家、奥州津軽に下向。南部師行を郡代として八戸根城を築城。また子、顕成に津軽浪岡を所領として与える
1335 建武2年
足利尊氏、斯波家長を奥州管領として高水寺城に下向させる
1336 建武3年
十三湊安藤師季、八戸根城を攻撃
1338 延元3年
北畠顕家、南部師行、大阪、和泉、石津において戦死。十三湊、大津波に襲われる。藤崎城主安藤秀光、大光寺に入り大光寺氏を名乗る
1341 興国2年
北畠顕信、将軍となり、厨川合戦を発動す。この年顕信、滴石御所を開く。安藤師秀、八戸南部政長の勧誘に応じ南朝方となる
1392 明徳3年
南北両朝合体す
室町時代
1411 応永18年
三戸南部守行、秋田湊の安藤鹿季と出羽仙北に戦う
1418 応永25年
「関東大名南部」上洛。将軍義持に馬100頭・金1,000両を献上す。この後「本八戸城」築城か?
1423 応永30年
安藤陸奥守、新将軍義量就任の賀として馬20頭・鳥5,000羽・銭2万疋・海虎(ラッコ)の皮30枚・昆布500把を献上
1432 永享4年
十三湊、安藤盛季、康季南部守行に敗れ、蝦夷ヶ島に敗走。幕府、調停に乗りだす
1436 永享8年
八戸糖部南部、斯波で和賀氏と合戦す
1443 嘉吉3年
津軽十三湊、安藤義季、三戸南部義政に敗れ蝦夷地に敗走す
1445 文安2年
安藤義季、津軽西浜に上陸
1453 享徳2年
安藤義季、南部氏に敗れ自害
1454 享徳3年
湊安東政季、南部氏に敗れて函館に敗走す
1456 康正2年
安東政季、秋田に上陸し檜山城を築く
1467 応仁元年
浪岡北畠顕義、浪岡城築城
1470 文明2年
安東師季、津軽回復を目指し藤崎館を攻めるが成功せず
1491 延徳3年
南部久慈光信、津軽西浜種里城に入る
1492 明応元年
陸前国の大崎教兼が斯波郡の地頭職となる
1495 明応4年
大崎教兼の子、詮高、高水寺城に住む
1498 明応7年
南部光康、横内城(現青森市)を築城す
1502 文亀2年
南部久慈光信、大浦城を築き、嫡男盛信を置く
1521 大永元年
糠部南部氏と和賀氏、斯波郡の郡山で合戦す
1524 大永3年
三戸南部安信、津軽地方を平定す
1533 天文2年
南部安信の弟高信、津軽の反乱を鎮圧する。高信は津軽郡代に任じられ、石川城(後弘前城)に拠る
1537 天文6年
三戸南部氏、南部晴政、斯波の郡山で和賀氏と合戦、和賀氏敗退す
1539 天文8年
南部彦三郎安政、上洛、将軍義晴より偏諱をうけ晴政と改名
1540 天文9年
南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏新庄に敗走す
1545 天文14年
斯波氏、南部滴石城を攻略、三戸南部晴政軍敗れて三戸に退く
1562 永禄5年
檜山安東愛季、比内長岡城を攻め浅利則祐を自害させる
1567 永禄10年
大浦為信、義父為則の跡を継ぎ大浦城主となる
1569 永禄12年
安東愛季の軍勢、南部領鹿角郡に侵攻。南部石川高信これを破る
1571 元亀2年
大浦為信、石川城を攻略、石川高信、自害す
1572 元亀3年
斯波氏、南部晴政軍に敗れ、見前郷を失う。斯波氏、九戸政実の弟、弥五郎(高田吉兵衛)を女婿に迎える
安土・桃山時代
1578 天正6年
大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる
1579 天正7年
安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開
1582 天正10年
南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする
1583 天正11年
安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合
1585 天正13年
大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗
1586 天正14年
南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ
1588 天正16年
三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡
1589 天正17年
湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる
1590 天正18年
南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏
1591 天正19年
九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める
1592 文禄元年
南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる
1594 文禄3年
南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す
1597 慶長2年
盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる
1598 慶長3年
南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡
1599 慶長4年
南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる
1600 慶長5年
家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣
1601 慶長6年
利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡)
1602 慶長7年
鹿角白根金山が発見される
江戸時代
1614 慶長19年
利直、大阪冬の陣に出陣
1615 元和元年
大阪夏の陣おこる
1625 寛永元年
三戸旧城下の町民を盛岡に移す
1632 寛永9年
南部利直が江戸桜田邸で逝去す
1633 寛永10年
南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める