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盛岡ヒストリー 平安時代中期 三ツ石神社 前九年の役 後三年の役

陸奥話記


六ヶ郡の司に安倍頼良なる者有り。
是は同(安倍)忠良の子也。
父祖の忠頼は東夷の酋長にして、威風大いに振るい、村落皆服す。
六郡を横行し、人民を刧略す。
子孫は尤も滋蔓し、漸く衣川の外に出でんとす。
賦貢を輸ばず。
傭役を勤るなし。
代々驕奢なり。
誰人も敢えて之を制する能わざる。

永承の頃、大守の藤原朝臣登任、数千の兵を発して之を攻む。
出羽秋田城介平朝臣重成は前鋒となり、大守は夫子を率いて後になる。
頼良諸郡の俘囚を以って之を拒み、大いに鬼功部で戦う。
大守軍は敗績し死者甚多し。
是に於いて朝廷に議有り。
追討将軍を択ぶに、衆議の帰する所、独り源朝臣頼義に在り。
 





平安時代


資料提供 – 盛岡教育委員会・盛岡タイムス


 


三ツ割石


三ツ割石

三ツ割石



 

<三ツ石-岩手・不来方の名の由来伝説->



東顕寺三ツ石記に、
昔この村に、いたずらな鬼がいて、しばしば出現しては里人に悪事をして困らせた。
そこで、里人達は三ツ石の霊神に懲らしめてくれるよう祈願したところ三ツ石の霊神が現れて、忽ち鬼を捕らえて縛ってしまった。
鬼は泣いて前悪を詫びたので、霊神は神社の霊石「三ツ石」に詫び手形を押させて鬼を赦して帰した。
それから鬼はこの里に現れ出ることがなくなり「不来方」(コズカタ)と名付けてその手形を「岩の手形」にし「岩手」と呼ぶようになり、これが地名となったという。
また喜んだ里の人々が「サンサ、サンサー」と三ツ石の周囲を踊り廻ったのが「サンサ踊り」のはじまりだとしている。
「盛岡四百年」より


 


三ツ割石

三ツ割石



 

<岩手郡の成立>



811年(弘仁2年)正月、陸奥国には和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波)の三郡が置かれました。
田村麻呂により志波城が造られた8年後のことです。
斯波郡以北は手前より幣伊(閉伊)・爾薩体・都母と呼ばれ岩手の名はありません。

岩手の地名が現れるのは安倍氏の時代で、「安倍氏は奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手)を支配し」と出てきます。
岩手の地名は安倍氏の初期の時代なのでしょう。

 


三ツ割石



 

<盛岡さんさ踊り>



毎年8月1日~8月4日まで行われる当地を代表する夏まつりです。
地域ごとに踊り方が異なっており33種類の踊り方があるとされています。
昔は中心部より郡部の方が盛んでした。
一番古いさんさ踊りは黒川さんさ踊りです。
雫石さんさ踊りも古い方でしょう。

 


盛岡さんさ踊り

盛岡さんさ踊り


 


盛岡さんさ踊り




平安時代~前九年の役


資料提供 – 盛岡タイムス


 


厨川柵・嫗戸柵


貞任捕まる

貞任、重任、経清は首縄となり京に送られる



 

<強大な地方豪族の誕生>



エゾを制した大和朝廷はエゾの首長を「郡司」つまり「地方長官」に任命して統治に当たらせました。
いわゆる間接支配で、これがやがて強大な地方豪族を生む結果になりました。

奥六郡の郡司に任命された安倍氏もそれで、厨川柵をはじめ岩手県内に12の柵を持ち、金・織物・馬など豊富な産物に恵まれ支配力を強めていきました。

前九年の役で滅ぼされましたが、その発端となった阿久利川事件は金や馬など陸奥の資源をねらった源頼義の挑発と考えられています。

 








 

厨川柵擬定地 厨川次郎貞任



盛岡市大館町~天昌寺までの一帯です。
現在は住宅地で面影はありません。
「前九年町」の町名が残っており、また、天昌寺裏に厨川柵の説明看板がありま す。
大館町の西側には諸葛川があり、この近辺には昔、貞任橋、宗任橋がありました。
厨川柵は奥州藤原氏の祖、藤原経清が捕らえられ処刑された場所です。

 



岩手県盛岡市天昌寺

岩手県盛岡市天昌寺








 

嫗戸柵擬定地 北浦六郎重任



嫗戸柵は以前は盛岡市安倍館と考えられていましたが、この場所では「陸奥話記」の文面と合いません。
近年、滝沢村の発掘調査により、滝沢村大釜、東林寺付近が嫗戸柵跡として有力視されています。
ここであれば「厨川柵と嫗戸柵の二柵の間、七八町なり」の文面と一致します。

 



岩手県滝沢村東林寺

岩手県滝沢村東林寺







 

陸奥話記(むつわき)



前九年の役について記された資料では「陸奥話記」が代表格です。
作者は不明ですが平安時代後期、11世紀後期と推定されています。
漢文体で短い文章ですが力強い描写で格調高い文体です。
「将門記」とともに初期軍記物語の代表作です。


 

NHK大河ドラマ「炎立つ」(ほむらたつ) 原作 高橋克彦



1993年7月4日~1994年3月13日までに放映されたNHK大河ドラマで、アテルイ、坂上田村麻呂~前九年の役、後三年の役~奥州藤原氏滅亡までを取り扱ったドラマ。
原作は当地直木賞作家、高橋克彦です。
その他奥州藤原氏の小説として、直木賞作家、元中尊寺住職 今東光「蒼き蝦夷の血」があります。


 

つなぎ温泉



「前九年の役」の厨川柵の合戦の折、源義家が当地に陣を張り、、この時温泉を発見し、傷ついた愛馬を石につなぎ、温泉に入浴したことが、つなぎ温泉の起こりとされています。
しかしこれも伝説で、はっきりしませんが、当時としては安倍一族の湯治場だったとした方が理解しやすいです。

 


つなぎ温泉




藤原経清 安部氏と前九年の役


資料提供 – 平泉前史





 


前九年、後三年合戦関係地図







 

<安倍氏と清原氏>



9世紀半ば、朝廷の蝦夷政策は陸奥国では胆沢城、出羽国では秋田城、払田柵が最北の城柵となりました。
この過程で地元の豪族や有力者が国家の役人に登用され、現地支配の実務は地元豪族にゆだねられていきました。
一方、朝廷の国司や鎮守府将軍は現地に赴くことは少なくなり、朝廷の蝦夷支配は地方豪族を介した間接支配へと変わっていきました。

11世紀、国家権力を背景に台頭してきたのが陸奥国では安倍氏でした。
安倍頼良の代には胆沢、江刺、和賀、稗貫、斯波、岩手の六郡(奥六郡)を支配するに至りました。
また出羽国では、清原氏が清原光頼の代に山本、雄勝、年鹿の山北三郡を支配するに至りました。
次第に安倍頼良の行動は奥六郡にとどまらず磐井郡や栗原郡に南下し始めました。

□ 1051年(永承6年)
これを制止しようとした陸奥国国司藤原登任の軍は鬼切部(栗原市鳴子)で安倍氏の軍と衝突。国司軍は大敗します。
これが前九年合戦(奥州十二年合戦)の始まりです。




 



前九年の役 厨川合戦古戦場

前九年の役 厨川合戦古戦場




 

<安倍氏・藤原経清と源頼義>



□ 1053年(天喜元年)
後任の陸奥守には源頼義が任じられ鎮守府将軍を兼任します。
頼義は出羽の清原氏と結び、その援軍を得て、安倍氏を追い詰めます。

□ 1062年(康平5年)
鳥海作(金ヶ崎町)から追われた安倍貞任、安倍宗任、藤原経清らは、岩手郡の厨川柵、嫗戸柵(現盛岡市)を拠点に源頼義と清原武則らの軍を迎え撃ちます。

□ 1062年(康平5年9月14日)
厨川柵、嫗戸柵は落城し、安倍氏は滅亡し、前九年の合戦は収束します。
このとき斬首された藤原経清は安倍頼良の娘婿であり、遺児清衡は母とともに清原家に入りますが、後三年合戦を生き抜き、後に平泉を開きます。


 



滝沢村八幡神社
滝沢村八幡神社



滝沢村八幡神社と八幡館山
滝沢村八幡神社と八幡館山




 

<八幡館山遺跡>



安倍氏との戦いに臨んだ源義家軍が陣営を構えたとされる場所。
義家は大きな陣釜を据えて兵馬の兵糧を供給し、かたわらに八幡大明神を祀って戦い、3日後ついに厨川柵を落としたと伝えられています。
神社のある八幡館山の頂上からは土器などの遺物が多数出土し、近年の学術調査・研究の結果11世紀の安倍氏の時代の山城跡ということが判明しました。
付近の大釜館遺跡とともに注目を集めています。

 






藤原清衡 清原氏と後三年の役


平泉前史


 

<源義家と藤原清衡>



前九年合戦の収束後、清原武則は陸奥鎮守府将軍に任じられ、安倍氏の奥六郡の支配を引き継ぎます。
それまで、平氏、源氏、藤原氏など、有力な軍事貴族が担ってきた鎮守府将軍職に、奥羽の豪族がはじめて登用されました。

□ 1070年(延久2年)
陸奥守源頼俊は清原貞衡(真衡?)を将軍に、閉伊七村、衣會別島(守會利か?)の荒夷を征討します。
当時閉伊地方はまだ朝廷の支配領域外であり、この大規模征討の主力は、清原氏の保有する強大な軍事力であり、これを中核に奥羽の広範な地域から、軍を動員していたと考えられます。

□ 1083年(永保3年)
総領の清原真衡と、弟の家衡、清衡との間に内紛が起こります。
陸奥守源義家は真衡を助け、清原(藤原)清衡、家衡を降伏させます。
後三年合戦の始まりです。
しかし、まもなく真衡が死去したため、奥六郡は清衡、家衡で分割統治することになりました。

□ 1085年(応徳2年)
今度は清衡と家衡、武衡が一族の主導権をめぐって争います。
源義家は清衡に味方し、家衡と武衡は沼柵(横手市)にこもります。

□ 1086年(応徳3年)
家衡、武衡は、より堅固な金沢柵(横手市)に篭城したため、源義家、清衡、吉彦秀武等はこれを兵糧攻めにします。

□ 1087年(寛治元年12月)
金沢柵は落ち、後三年合戦は終わりました。
この結果、清原(藤原)清衡は安倍氏、清原氏の旧領をすべて継承することになりました。

□ 1089年(寛治3年)
藤原清衡は江刺郡の豊田館に居住しました。


 





 

<大鳥井山遺跡>




横手市街地北部に位置する10世紀後半~11世紀末の居館跡。
西・南・北を川に囲まれた小吉山と大鳥井山にまたがり、防御性の高い構造。
そのうち約8万5200平方メートルが国史跡となった。
「陸奥話記」に登場する 出羽山北でわせんぼくの俘囚ふしゅう(朝廷の支配下に入った蝦夷)主・清原光頼、頼遠親子の居館の可能性が高い。








盛岡略年表


 

縄文・弥生・大和時代


B.C.6000~





奈良時代


749 勝宝元年

奥州から初めて黄金を献じた



770 宝亀元年

坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍とする



789 延暦8年

紀古佐美征討将軍、胆沢の地を大軍で攻めたが大敗



794 延暦13年

坂上田村麻呂を征夷副将軍に命じ胆沢の蝦夷を征す



797 延暦16年

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ず



平安時代


802 延暦21年

坂上田村麻呂、胆沢城を築く



803 延暦22年

坂上田村麻呂、志波城を築く。この年、征夷大将軍を辞職する



804 延暦23年

田村麻呂を征夷大将軍に再任する



811 弘仁2年

和我、稗縫、斯波の三郡建置。同年文室綿麻呂を征夷将軍に任ず



813 弘仁4年

徳丹城が設置される



1051 永承6年

安倍頼良そむき、源頼義を陸奥守に任じて追討す



1056 天喜4年

前九年の役おこる



1062 慶平5年

前九年の役おわる。源頼義、厨川柵にて安倍貞任、藤原経清を斬る



1081 永保元年

源義家、陸奥守に任命される



1083 永保3年

藤原清衡に伊沢・江刺・和賀、藤原家衡に稗貫・志波・岩手郡を分領させる。後三年の役はじまる



1087 寛治元年

源義家、金沢柵陥落し、清原氏滅亡する。後三年の役おわる



1089 寛治3年

藤原清衡、陸奥押領使となり、伊沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡を領し、江刺郡豊田館に居住す



1124 天治元年

藤原清衡、中尊寺金色堂を建立す



1126 大治元年

清衡、中尊寺金堂・三重塔などを建立す



1156 保元元年

保元の乱



1170 嘉応2年

藤原秀衡、鎮守将軍となる



1175 安元元年

藤原俊衡、樋瓜館に住む



1184 寿永3年

平兼盛、磐手郡滴石戸沢に移り住む



1187 文治3年

藤原秀衡、死去



1189 文治5年

奥州合戦、源頼朝、藤原泰衡を攻める。伊達郡阿津賀志山の合戦で、三沢安藤四郎の兵略によって奥州軍敗走。河田次郎の裏切りにより泰衡討たれる。葛西清重、頼朝より陸奥国御家人の奉行を命じられる。また津軽には宇佐美平次実政を惣地頭として派遣。頼朝、鎌倉へ帰途。工藤小次郎行光に岩手郡を与える



1190 建久元年

大川兼任の乱、泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とす



1192 建久2年

頼朝、東海道大将軍、千葉介常胤、東海道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る



鎌倉時代


1268 文永5年

足利尾張守家氏。斯波郡に下向。高水寺に在城す



1333 元弘3年

南部信長、岩手郡厨川の工藤氏を攻めて降す



1334 建武元年

北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷を給す



室町時代南北朝


1334 建武元年

建武の中興 鎮守府将軍北畠顕家、奥州津軽に下向。南部師行を郡代として八戸根城を築城。また子、顕成に津軽浪岡を所領として与える



1335 建武2年

足利尊氏、斯波家長を奥州管領として高水寺城に下向させる



1336 建武3年

十三湊安藤師季、八戸根城を攻撃



1338 延元3年

北畠顕家、南部師行、大阪、和泉、石津において戦死。十三湊、大津波に襲われる。藤崎城主安藤秀光、大光寺に入り大光寺氏を名乗る



1341 興国2年

北畠顕信、将軍となり、厨川合戦を発動す。この年顕信、滴石御所を開く。安藤師秀、八戸南部政長の勧誘に応じ南朝方となる



1392 明徳3年

南北両朝合体す



室町時代


1411 応永18年

三戸南部守行、秋田湊の安藤鹿季と出羽仙北に戦う



1418 応永25年

「関東大名南部」上洛。将軍義持に馬100頭・金1,000両を献上す。この後「本八戸城」築城か?



1423 応永30年

安藤陸奥守、新将軍義量就任の賀として馬20頭・鳥5,000羽・銭2万疋・海虎(ラッコ)の皮30枚・昆布500把を献上



1432 永享4年

十三湊、安藤盛季、康季南部守行に敗れ、蝦夷ヶ島に敗走。幕府、調停に乗りだす



1436 永享8年

八戸糖部南部、斯波で和賀氏と合戦す



1443 嘉吉3年

津軽十三湊、安藤義季、三戸南部義政に敗れ蝦夷地に敗走す



1445 文安2年

安藤義季、津軽西浜に上陸



1453 享徳2年

安藤義季、南部氏に敗れ自害



1454 享徳3年

湊安東政季、南部氏に敗れて函館に敗走す



1456 康正2年

安東政季、秋田に上陸し檜山城を築く



1467 応仁元年

浪岡北畠顕義、浪岡城築城



1470 文明2年

安東師季、津軽回復を目指し藤崎館を攻めるが成功せず



1491 延徳3年

南部久慈光信、津軽西浜種里城に入る



1492 明応元年

陸前国の大崎教兼が斯波郡の地頭職となる



1495 明応4年

大崎教兼の子、詮高、高水寺城に住む



1498 明応7年

南部光康、横内城(現青森市)を築城す



1502 文亀2年

南部久慈光信、大浦城を築き、嫡男盛信を置く



1521 大永元年

糠部南部氏と和賀氏、斯波郡の郡山で合戦す



1524 大永3年

三戸南部安信、津軽地方を平定す



1533 天文2年

南部安信の弟高信、津軽の反乱を鎮圧する。高信は津軽郡代に任じられ、石川城(後弘前城)に拠る



1537 天文6年

三戸南部氏、南部晴政、斯波の郡山で和賀氏と合戦、和賀氏敗退す



1539 天文8年

南部彦三郎安政、上洛、将軍義晴より偏諱をうけ晴政と改名



1540 天文9年

南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏新庄に敗走す



1545 天文14年

斯波氏、南部滴石城を攻略、三戸南部晴政軍敗れて三戸に退く



1562 永禄5年

檜山安東愛季、比内長岡城を攻め浅利則祐を自害させる



1567 永禄10年

大浦為信、義父為則の跡を継ぎ大浦城主となる



1569 永禄12年

安東愛季の軍勢、南部領鹿角郡に侵攻。南部石川高信これを破る



1571 元亀2年

大浦為信、石川城を攻略、石川高信、自害す



1572 元亀3年

斯波氏、南部晴政軍に敗れ、見前郷を失う。斯波氏、九戸政実の弟、弥五郎(高田吉兵衛)を女婿に迎える



安土・桃山時代


1578 天正6年

大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる



1579 天正7年

安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開



1582 天正10年

南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする



1583 天正11年

安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合



1585 天正13年

大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗



1586 天正14年

南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ



1588 天正16年

三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡



1589 天正17年

湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる



1590 天正18年

南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏



1591 天正19年

九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める



1592 文禄元年

南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる



1594 文禄3年

南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す



1597 慶長2年

盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる



1598 慶長3年

南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡



1599 慶長4年

南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる



1600 慶長5年

家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣



1601 慶長6年

利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡)



1602 慶長7年

鹿角白根金山が発見される



江戸時代


1614 慶長19年

利直、大阪冬の陣に出陣



1615 元和元年

大阪夏の陣おこる



1625 寛永元年

三戸旧城下の町民を盛岡に移す



1632 寛永9年

南部利直が江戸桜田邸で逝去す



1633 寛永10年

南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める






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