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盛岡ヒストリー 盛岡の公園 南部庭 高松の池


盛岡タイトル

『盛岡砂子』には、盛岡の地名の伝承について、つぎのような話が書かれている。
まず、築城の初めのとき、御鍬立ての御祝儀にお酒盛りがあった。そのとき利直公は、「この城を不来方こずかたというは、心悪しき文字なり。森ヶ岡もりがおかと号すべし」と仰せられた。そののち、いつのころからか、”ヶ”の字を除いて、森岡もりおかと唱えるようになった。

ところが、山岸の永福寺の後の方に小高い岡があって、これを昔から”盛岡”といった。それで永福寺は、この地に拠って「宝珠盛岡山」という山号にした。元禄4年(1691)のこと、永福寺の住持の僧が、藩主重信公のところへ「宝の珠の盛る岡山」という下の句をもってきて、上の句をつけてほしいと望んだ。そのとき重信公は、「幾春も花の恵みの露やこれ」という上の句をつけられた。
この重信公の御連歌があってから、”森”の字を”盛”の字に改められて、「盛岡」と称するようになったということである。


盛岡の歴史(上)より
 




安土桃山~江戸時代




 

御薬園・盛岡市中央公民館


盛岡市中央公民館

盛岡市中央公民館



 

□ 江戸時代の初め、南部藩主の薬草園「御薬園」として開設。



江戸中期には下小路御屋敷として、藩主の遊興の場所として使用されました。
幕末には藩士の子弟の学校「明義塾」として使用。

□ 1908年(明治41年)には南部伯爵家の別邸が建設されました。
この別邸の庭園の紅葉は、盛岡の中でもとくに美しい紅葉が楽しめます。
時期は遅く、10月末~11月初めです。
また館内の郷土資料展示室には、戦後南部家から譲り受けた、古文書、絵図、衣装、武具、調度品などが所蔵、展示されています。


 



盛岡市中央公民館


盛岡市中央公民館


 


御薬園


 



盛岡市中央公民館


盛岡市中央公民館


 


盛岡市中央公民館








開館時間 9:00~21:00(日曜日は17:00まで)

郷土資料展示室 9:00~17:00(受付は16:30まで)
休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日)、国民の祝日、12月29日~1月3日

※臨時休館あり
TEL 019-654-5366
所在地 岩手県盛岡市愛宕町14-1
ホームページ http://www.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/chuo/mcch/


 



盛岡市中央公民館


盛岡市中央公民館


 


盛岡市中央公民館




江戸時代




 

盛岡城下

 



上の橋

上の橋



下の橋

下の橋




 

上の橋(1609年)



慶長14年10月創設。
擬宝珠銘文に「慶長十四年巳酉年十月吉日 中津川上之橋 源朝臣 利直」とあります。
上の橋は大手門から京町~銅屋町~紙町に通ずる橋であり、「紙町の橋」とも呼ばれていました。

 

下の橋(1611年)



慶長16年9月創設。





 









 

擬宝珠



中津川の2橋には、京都加茂川の大橋になぞらえて、「上の橋」は長さ二十間、幅三間、「中の橋」は長さ二十一間、幅三間の橋で、高欄に青銅擬宝珠(ぎぼし)を付した名橋であり、城下町盛岡の象徴です。

この擬宝珠は南部家の所伝に従えば、南部藩主第十二代南部近江守政行が、在京中に加茂川の橋の擬宝珠を移す勅許を得て、これを居住地三戸城、熊原川の橋につけ「黄金橋」と称したとされています。

慶長のはじめ、不来方城の築城に着手し、城下を流れる中津川に上の橋、中の橋、下の橋の3橋をかけ、上の橋と中の橋の2橋にこの三戸城下黄金橋の擬宝珠を移したものといいます。














上田堤(高松の池)

上田堤(高松の池)


上田堤(高松の池)



 

<高松の池(上田堤)>



城下町造成以前の不来方(盛岡)の地形は、北上川と中津川との洪水氾濫で、沼沢や谷地の多い湿地帯をなしていました。
また上田方面からは、現在の高松の池の北の方の山地から流れ出る沢水が、上田、赤川、仁王、長町方面に浸出してきて、やはり一面の湿地帯でした。
これが盛岡の町づくりの障害となっており、上田方面からの沢水対策として、寛文元年~寛文12年(1661~1672年)までの12年間をかけて上田堤(現 高松の池)を築き、沢水の浸出を防ぎました。
これにより上田、赤川、仁王方面の宅地造成が一挙に進みました。
現在高松の池は、市民の憩いの場であり、また当地の桜の名所です。

 



上田堤(高松の池)


上田堤(高松の池)


 


上田堤(高松の池)



 

<上田堤の歴史>



上田堤は上堤、中堤、下堤の三段階になっていました。現在の堤は中堤のみです。

□ 1661年(寛文元年)頃
工事着工。

□ 1672年(寛文12年)頃
一応の工事が完成し、これにより上田、赤川、仁王方面の宅地造成が進む。

□ 1673年(延宝元年)6月11日
上田堤決壊する。同年工事着工。溺死5人、破損家屋10余軒。

□ 1810年(文化7年)8月
上田下堤を普請。

□ 1814年(文化11年)2月
上田中堤を普請。

□ 1815年(文化12年)
上田中堤を普請。

□ 1852年(嘉永5年)9月
上田三堤のうち、鳥溜、御用水兼用のところ、上台新田開発で鳥溜御用池停止となる。

□ 1906年(明治39年)
日露戦争の戦勝を記念して池の周囲に桜樹が植えられる。

□ 1999年(平成元年)
日本のさくら名所100選に選ばれる。


 



上田堤(高松の池)


上田堤(高松の池)


 


上田堤(高松の池)



 

<日本の桜名所百選(東北六県分)>



 
○青森県 弘前市 弘前公園
五所川原市 芦野池沼群県立自然公園
○岩手県 盛岡市 高松公園
北上市 北上市立公園展勝地
○宮城県 柴田郡大河原、柴田町船岡城址公園、白石川堤
○秋田県 秋田市 千秋公園
横手市 真人公園
仙北市 桧木内川堤、角館武家屋敷
○山形県 鶴岡市 鶴岡公園
南陽市 烏帽子山公園
○福島県 会津若松市 鶴ヶ丘公園
二本松市 霞ヶ城公園
田村郡 三春町のシダレザクラ

> 日本さくら名所100選


 



上田堤(高松の池)


上田堤(高松の池)


 


上田堤(高松の池)


 


上田堤(高松の池)

















盛岡略年表


 

縄文・弥生・大和時代


B.C.6000~





奈良時代


749 勝宝元年

奥州から初めて黄金を献じた



770 宝亀元年

坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍とする



789 延暦8年

紀古佐美征討将軍、胆沢の地を大軍で攻めたが大敗



794 延暦13年

坂上田村麻呂を征夷副将軍に命じ胆沢の蝦夷を征す



797 延暦16年

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ず



平安時代


802 延暦21年

坂上田村麻呂、胆沢城を築く



803 延暦22年

坂上田村麻呂、志波城を築く。この年、征夷大将軍を辞職する



804 延暦23年

田村麻呂を征夷大将軍に再任する



811 弘仁2年

和我、稗縫、斯波の三郡建置。同年文室綿麻呂を征夷将軍に任ず



813 弘仁4年

徳丹城が設置される



1051 永承6年

安倍頼良そむき、源頼義を陸奥守に任じて追討す



1056 天喜4年

前九年の役おこる



1062 慶平5年

前九年の役おわる。源頼義、厨川柵にて安倍貞任、藤原経清を斬る



1081 永保元年

源義家、陸奥守に任命される



1083 永保3年

藤原清衡に伊沢・江刺・和賀、藤原家衡に稗貫・志波・岩手郡を分領させる。後三年の役はじまる



1087 寛治元年

源義家、金沢柵陥落し、清原氏滅亡する。後三年の役おわる



1089 寛治3年

藤原清衡、陸奥押領使となり、伊沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡を領し、江刺郡豊田館に居住す



1124 天治元年

藤原清衡、中尊寺金色堂を建立す



1126 大治元年

清衡、中尊寺金堂・三重塔などを建立す



1156 保元元年

保元の乱



1170 嘉応2年

藤原秀衡、鎮守将軍となる



1175 安元元年

藤原俊衡、樋瓜館に住む



1184 寿永3年

平兼盛、磐手郡滴石戸沢に移り住む



1187 文治3年

藤原秀衡、死去



1189 文治5年

奥州合戦、源頼朝、藤原泰衡を攻める。伊達郡阿津賀志山の合戦で、三沢安藤四郎の兵略によって奥州軍敗走。河田次郎の裏切りにより泰衡討たれる。葛西清重、頼朝より陸奥国御家人の奉行を命じられる。また津軽には宇佐美平次実政を惣地頭として派遣。頼朝、鎌倉へ帰途。工藤小次郎行光に岩手郡を与える



1190 建久元年

大川兼任の乱、泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とす



1192 建久2年

頼朝、東海道大将軍、千葉介常胤、東海道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る



鎌倉時代


1268 文永5年

足利尾張守家氏。斯波郡に下向。高水寺に在城す



1333 元弘3年

南部信長、岩手郡厨川の工藤氏を攻めて降す



1334 建武元年

北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷を給す



室町時代南北朝


1334 建武元年

建武の中興 鎮守府将軍北畠顕家、奥州津軽に下向。南部師行を郡代として八戸根城を築城。また子、顕成に津軽浪岡を所領として与える



1335 建武2年

足利尊氏、斯波家長を奥州管領として高水寺城に下向させる



1336 建武3年

十三湊安藤師季、八戸根城を攻撃



1338 延元3年

北畠顕家、南部師行、大阪、和泉、石津において戦死。十三湊、大津波に襲われる。藤崎城主安藤秀光、大光寺に入り大光寺氏を名乗る



1341 興国2年

北畠顕信、将軍となり、厨川合戦を発動す。この年顕信、滴石御所を開く。安藤師秀、八戸南部政長の勧誘に応じ南朝方となる



1392 明徳3年

南北両朝合体す



室町時代


1411 応永18年

三戸南部守行、秋田湊の安藤鹿季と出羽仙北に戦う



1418 応永25年

「関東大名南部」上洛。将軍義持に馬100頭・金1,000両を献上す。この後「本八戸城」築城か?



1423 応永30年

安藤陸奥守、新将軍義量就任の賀として馬20頭・鳥5,000羽・銭2万疋・海虎(ラッコ)の皮30枚・昆布500把を献上



1432 永享4年

十三湊、安藤盛季、康季南部守行に敗れ、蝦夷ヶ島に敗走。幕府、調停に乗りだす



1436 永享8年

八戸糖部南部、斯波で和賀氏と合戦す



1443 嘉吉3年

津軽十三湊、安藤義季、三戸南部義政に敗れ蝦夷地に敗走す



1445 文安2年

安藤義季、津軽西浜に上陸



1453 享徳2年

安藤義季、南部氏に敗れ自害



1454 享徳3年

湊安東政季、南部氏に敗れて函館に敗走す



1456 康正2年

安東政季、秋田に上陸し檜山城を築く



1467 応仁元年

浪岡北畠顕義、浪岡城築城



1470 文明2年

安東師季、津軽回復を目指し藤崎館を攻めるが成功せず



1491 延徳3年

南部久慈光信、津軽西浜種里城に入る



1492 明応元年

陸前国の大崎教兼が斯波郡の地頭職となる



1495 明応4年

大崎教兼の子、詮高、高水寺城に住む



1498 明応7年

南部光康、横内城(現青森市)を築城す



1502 文亀2年

南部久慈光信、大浦城を築き、嫡男盛信を置く



1521 大永元年

糠部南部氏と和賀氏、斯波郡の郡山で合戦す



1524 大永3年

三戸南部安信、津軽地方を平定す



1533 天文2年

南部安信の弟高信、津軽の反乱を鎮圧する。高信は津軽郡代に任じられ、石川城(後弘前城)に拠る



1537 天文6年

三戸南部氏、南部晴政、斯波の郡山で和賀氏と合戦、和賀氏敗退す



1539 天文8年

南部彦三郎安政、上洛、将軍義晴より偏諱をうけ晴政と改名



1540 天文9年

南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏新庄に敗走す



1545 天文14年

斯波氏、南部滴石城を攻略、三戸南部晴政軍敗れて三戸に退く



1562 永禄5年

檜山安東愛季、比内長岡城を攻め浅利則祐を自害させる



1567 永禄10年

大浦為信、義父為則の跡を継ぎ大浦城主となる



1569 永禄12年

安東愛季の軍勢、南部領鹿角郡に侵攻。南部石川高信これを破る



1571 元亀2年

大浦為信、石川城を攻略、石川高信、自害す



1572 元亀3年

斯波氏、南部晴政軍に敗れ、見前郷を失う。斯波氏、九戸政実の弟、弥五郎(高田吉兵衛)を女婿に迎える



安土・桃山時代


1578 天正6年

大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる



1579 天正7年

安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開



1582 天正10年

南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする



1583 天正11年

安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合



1585 天正13年

大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗



1586 天正14年

南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ



1588 天正16年

三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡



1589 天正17年

湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる



1590 天正18年

南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏



1591 天正19年

九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める



1592 文禄元年

南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる



1594 文禄3年

南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す



1597 慶長2年

盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる



1598 慶長3年

南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡



1599 慶長4年

南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる



1600 慶長5年

家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣



1601 慶長6年

利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡)



1602 慶長7年

鹿角白根金山が発見される



江戸時代


1614 慶長19年

利直、大阪冬の陣に出陣



1615 元和元年

大阪夏の陣おこる



1625 寛永元年

三戸旧城下の町民を盛岡に移す



1632 寛永9年

南部利直が江戸桜田邸で逝去す



1633 寛永10年

南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める








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