盛岡ヒストリー 盛岡城 聖寿寺 東禅寺
不来方→森岡→盛岡へ
不来方→森岡→盛岡へ
盛岡の地名は元は「不来方こずかた」と呼ばれ、築城当時は不来方城といわれていました。
慶長8年(1603年)、不来方城は盛岡城と改められました。
しかし「もりおか」を森岡と書く者が多く、元禄4年(1691年)、森岡を盛岡と定め混用を改めました。
盛岡藩の人口、城下の人口
貞享2年(1685年)、盛岡藩の総人口は30万6千余人で、そのうち武士階級の人口は2万2千人でした。
盛岡城下の人口は1万3千人で、当時盛岡在住の武士とその家族を合わせると約3万人前後です。実に領内人口の1割に相当します。
安土桃山~江戸時代
南部氏
平成・南部藩 南部氏の歴史
山梨県 南部町・身延町
青森県 南部町・八戸市・七戸町・三戸町
岩手県 二戸市・盛岡市・遠野市
青森県 南部町・八戸市・七戸町・三戸町
岩手県 二戸市・盛岡市・遠野市
<南部氏>
南部氏は「三戸南部氏」と「八戸根城南部氏」の二つがあります。
三戸南部氏が宗家で八戸根城南部氏が分家です。
南部氏は共に甲斐国南部郷(現山梨県南部町)の出身で甲斐源氏です。
鎌倉時代日蓮が佐渡への流罪後、身を寄せたところで、日蓮宗総本山、身延山久遠寺のあるところでも有名な土地です。
さて南部氏は、鎌倉時代末期に起こった津軽安藤の内乱鎮定のために鎌倉幕府の命により奥州糖部郡に出兵し(現青森県南部町)に着任しました。
その後、新田義貞の倒幕に参戦し鎌倉幕府を倒します。
下って南北朝時代、南朝の陸奥守、北畠顕家津軽下向に従った南部師行は、糖部郡代として八戸南部氏の養子となり八戸根城を築城しました。
八戸根城南部氏は糖部郡代でもあり、南北朝時代、南朝の北畠顕家を助け大いに活躍しました。
南北両朝が合体すると今度は三戸南部氏が一挙に優勢になります。
八戸南部氏は低迷期に入りますが三戸南部氏は十三湊の安藤氏の攻略に移ります。
守行、義政と代を重ねながら安藤氏の攻略を続け、室町時代の後期、安信の代に津軽一帯を統一します。
しかし南部(大浦)為信が石川城を攻め石川高信を自害させ津軽を分離させます。
安土・桃山時代に入ると大浦為信との間に和約が成立し、為信は檜山安東氏と激戦を繰り返すようになり、信直は南下政策を開始、次第に盛岡地域は南部領に組み込まれていきます。
こうして南部藩と津軽藩が成立します。
<南部氏の糖部郡入部について>
南部氏がいつの時代に糖部郡に入部したかについては諸説が多く一定していません。
しかし近年の研究では、鎌倉時代の糖部郡は北条得宗領であり南部氏の定住した痕跡は全く見あたりません。
しかし鎌倉幕府の資料によれば糖部郡に最初に入部したのは津軽安藤の乱の鎮定に鎌倉幕府の命令により出兵したことが始まりです。
津軽安藤の乱は鎌倉時代末期、安藤氏の蝦夷沙汰職と地頭職の相続争いがアイヌ民族を巻き込んでの大乱と発展した事件です。
□ 1322年(元享2年)
津軽安藤の乱勃発。
幕府は津軽鎮定を南部実継に依頼し、実継は、子 長継を奥州に出兵させた。
このとき長継は糖部郡に入り、これが波木井南部氏の糖部進出の糸口となった。
幕府は津軽鎮定を南部実継に依頼し、実継は、子 長継を奥州に出兵させた。
このとき長継は糖部郡に入り、これが波木井南部氏の糖部進出の糸口となった。
□ 1325年(正中2年)
蝦夷沙汰職は安藤季久(宗季)に与えられた。
宗季、所領および蝦夷沙汰職を子に譲る。
宗季、所領および蝦夷沙汰職を子に譲る。
□ 1328年(嘉暦3年)
南部長継、安藤の乱を平定
□ 1331年(元弘元年)
南部実継、長継 親子は倒幕に参戦。
□ 1332年(元弘2年)
父 実継は幕府軍に捕らえられて、多数の者とともに京都六条河原において斬刑に処せられた。
□ 1333年(元弘3年)
長継は師行を養子とする。
長継、新田義貞に倒幕挙兵の招きを受けたが自ら甲州にあって動かず。
奥州糖部から兄 時長、その子 行長、師行の嗣子 政長を鎌倉攻めに参戦させた。
長継、新田義貞に倒幕挙兵の招きを受けたが自ら甲州にあって動かず。
奥州糖部から兄 時長、その子 行長、師行の嗣子 政長を鎌倉攻めに参戦させた。
□ 同年
足利尊氏は幕府に謀反して京都六波羅探題を覆滅させた。
一方長政の加わった義貞軍は鎌倉幕府を滅ぼす。
師行は幕府滅亡後八戸に根城を築き、波木井南部氏の根拠地として八戸南部氏が誕生した。
<三戸南部氏の糖部入部について>
三戸南部氏がいつの時期に糖部に入部したかについても不明です。
一般的に三戸南部氏が糖部に所領を与えられたのは建武新政下に北畠顕家から南部師行が北奥諸郡奉行に任ぜられた建武元年(1334年)以降とされています。
このとき三戸南部氏は本三戸城(現青森県南部町)を本拠としました。
南北朝時代、三戸南部氏は北朝軍であったとされていますがそのような証拠は見当たりません。
天台寺の鐘楼は南北朝時代に南部氏によって寄進されたものですが、これには八戸南部氏と三戸南部氏の双方の名が刻まれています。
一方長政の加わった義貞軍は鎌倉幕府を滅ぼす。
師行は幕府滅亡後八戸に根城を築き、波木井南部氏の根拠地として八戸南部氏が誕生した。
<三戸南部氏の糖部入部について>
三戸南部氏がいつの時期に糖部に入部したかについても不明です。
一般的に三戸南部氏が糖部に所領を与えられたのは建武新政下に北畠顕家から南部師行が北奥諸郡奉行に任ぜられた建武元年(1334年)以降とされています。
このとき三戸南部氏は本三戸城(現青森県南部町)を本拠としました。
南北朝時代、三戸南部氏は北朝軍であったとされていますがそのような証拠は見当たりません。
天台寺の鐘楼は南北朝時代に南部氏によって寄進されたものですが、これには八戸南部氏と三戸南部氏の双方の名が刻まれています。
□ 1392年(明徳3年)
南北朝合体。
これにより三戸南部守行は将軍足利義満の内意を受けて、八戸南部政光を説得。
政光は守行の忠告に従い、甲斐波木井郷を捨てて八戸根城に移住した。
南北朝合体後三戸南部氏が南部一族の総領とし表舞台に出てくることになります。
これにより三戸南部守行は将軍足利義満の内意を受けて、八戸南部政光を説得。
政光は守行の忠告に従い、甲斐波木井郷を捨てて八戸根城に移住した。
南北朝合体後三戸南部氏が南部一族の総領とし表舞台に出てくることになります。
<盛岡城>
1590年、信直は、秀吉の小田原攻めに参陣し、本領を安堵されました。
まもなく、同族の九戸政実が反乱を起こし、これを鎮圧(九戸政実の乱)。
1593年、信直、朝鮮出兵のため名護屋(唐津)滞陣中に、秀吉より不来方の地に居城築営の許可が認められ、不来方城(盛岡城)築城の縄張りが開始されました。
1601年、不来方城築城中に、和賀氏の岩崎城に進軍、火攻めにより岩崎城を攻略。
和賀氏伊達領に敗走し滅亡しました。
1608年、不来方城(盛岡城)の築城と盛岡城下の町並の整備が、一応出来あがりました。
南部氏は、室町・南北朝時代は八戸南部氏が優勢で、戦国時代からは三戸南部氏が優勢になっています。
三戸南部氏は晴政の時代に領土を確立し、次の二十六世南部信直が南部盛岡藩の基礎を確立しました。
当初10万石でしたが、文化5年(1809年)に20万石に加増されました。
盛岡城
□ 1597年(慶長2年)3月6日
盛岡城築城工事ならびに城下町設営工事、始まる。
総奉行 南部信濃守利直(利正)
五奉行 八戸弾正直栄 13,000石
桜庭安房直綱 2,000石
中野吉兵衛正康 3,000石
石井伊賀守直光 2,000石
大光寺左衛門正親 3,800石
奉行並 日戸内膳正秀恒 1,360石
簗田大学勝泰 1,000石
江刺兵庫頭重隆 1,500石
大槌孫三郎広紹 3,000石
浄法寺修理重好 5,000石
城縄張役 内堀伊豆頼式 1,000石
南部氏の歴代居城移転
<三戸南部>
□ 平良ヶ崎城(南部町)
鎌倉時代1191年(承久元年)
初代源光行
初代源光行
□ 聖寿寺館(南部町)
1322年(元亨2年)着任
□ 本三戸城
室町時代1418年(応永25年)頃の築城
13代南部守行14代義政時代1539年(天文8年)焼失
13代南部守行14代義政時代1539年(天文8年)焼失
□ 新三戸城(三戸町)
戦国時代1590年(天正18年)
24代南部晴政築城
24代南部晴政築城
□ 郡山城(紫波町)
戦国時代1588年(天正16年)
26代南部信直 斯波高水寺城→郡山城
26代南部信直 斯波高水寺城→郡山城
□ 福岡城(二戸市)
戦国時代1591年(天正19年)
26代信直 九戸城を福岡城と改正す
26代信直 九戸城を福岡城と改正す
□ 盛岡城(盛岡市)
1598年(慶長3年)
26代信直築城
<八戸根城南部>
26代信直築城
<八戸根城南部>
□ 根城(八戸市)
南北朝時代1334年(建武元年)
南部師行築城
南部師行築城
□ 遠野城(遠野市)
江戸時代1627年(寛永4年)
八戸南部22代直秀 阿曽沼氏築城 鍋倉城を遠野城に改正
八戸南部22代直秀 阿曽沼氏築城 鍋倉城を遠野城に改正
<城郭の構成-内曲輪>
盛岡城の内曲輪は、石垣で囲まれた本丸、ニノ丸、三ノ丸、腰曲輪(淡路丸)、榊山曲輪と、その周囲の勘定所・御蔵・台所などの諸部分から成っています。
腰曲輪で囲まれた本丸から北へ向ってニノ丸、三ノ丸が並列しています。
ニノ丸の東には台所、本丸の南には米内蔵、三ノ丸の西には新蔵など諸部分が付属しています。
盛岡城の基本構造は、南から北へ曲輪をつらねた、連郭式の城郭です。
盛岡城絵図
<本丸>
本丸は城内最高所で、石垣で囲まれ、ほぼ正方形です。
本丸の南東隅には三層の天守閣がありました。
南西隅には二階櫓、北西隅には二層の小納戸櫓がありました。
北側の門は本丸の表門にあたり廊下橋を渡ってニノ丸御殿に通じていました。
東側の門は「御末門」と呼び、台所から登ってきて、右折して本丸の内部へ入るようになっています。
三層の天守閣跡
二階櫓跡
二層の小納戸櫓跡
御末門跡
<ニノ丸>
ニノ丸は大書院跡です。
本丸と廊下橋でつながれており、藩政を取り扱う諸役所が置かれていました。
城内における公式行事はこのニノ丸の御殿で行われました。
ニノ丸北東部には「車門」という櫓門が設けられていました。
参勤交代のため、大名行列をしてお城を出られるときはニノ丸御殿の玄関から駕籠に乗り車門から綱門を出て出発されました。
なお、築城当時の二ノ丸は石垣はなく、すべて地山のままで木柵をめぐらせたものでした。
二ノ丸の入口「車門」
本丸と二ノ丸をつなぐ廊下橋跡
<腰曲輪-淡路丸・馬場・待合・榊山曲輪>
本丸の東・南・西の三方は、腰曲輪によって守護されています。
南東部には入隅と横矢掛りがあり、この部分には二階櫓、横矢掛りには小櫓が設けられていました。
東側の腰曲輪には桜山神社跡があります。
南側、南西部の隅は、「吹上げ三社」の跡があり、この北側は「吹上門」が建てられていました。
南側中央部は「桜の馬場」があり、ここで公儀献上の馬を、藩主自ら上覧して選定されました。
西側は三角形をなす一郭があり、城内三社の1つである榊山稲荷が祀られていたので、「榊山曲輪」と呼ばれていました。
腰曲輪(淡路丸)
待合
吹上御門跡
榊山曲輪
馬場跡(桜の馬場)
2階櫓・横矢掛り跡
中津川より馬場、2階櫓、淡路丸を望む
<三ノ丸>
三ノ丸は松ノ丸といって、二ノ丸よりさらに一段低くなっており、北側に続いています。
三ノ丸には、北と南に門があり、北側は櫓門で「瓦門」と呼び、南側は「不明門」といいました。
不明門は本来は「鵜住門」と称したもので、台所前御門の通称です。
北側の瓦門の東には「烏帽子岩」があり、この石を境として東側は低くなっています。
この部分は東側と北側の石垣に、「横矢掛り」の歪みを持ち、南東部には石組井戸が現存します。
瓦門跡
不明門(鵜住門)跡
<下曲輪>
下曲輪とは、三ノ丸の北側の下段から、外曲輪(内丸)へ出る綱門の内側までの地区です。
この地区は、三ノ丸の腰曲輪的な南側の上段(現在の桜山神社の拝殿と社務所)と、その北側の下段(現在の商店街)とに分かれます。
上段の北側中央には「鳩門」が設けられ、そこから東半分は石垣が積まれていましたが、現存していません。
北側の西半分は、堀(亀ヶ池)に面して土手のままです。
下段の方は三方を土塁と水堀(東は鶴ヶ池、西は亀ヶ池)に囲まれ、北側中央には「綱門(櫓門)」が設けられていました。
下段の東半分には、寛政6年(1794年)に「勘定所」が設置されていました。
なお、下段の北東部の隅には鐘楼がありますが、これは藩政期に日影門外小路の西裏にあった「時鐘」で、現在は市指定の文化財として保存されています。
綱門跡
鳩門跡
勘定所跡
盛岡城亀ヶ池
<台所>
腰曲輪・二ノ丸・三ノ丸によって南・西・北の三方を囲まれ、東は堀(鶴ヶ池)に面しています。
東側の堀は、土橋を境にして食い違いとなり内側に桝を設けました。
枡形を右折したところに「台所門」がありました。
郭内の南部に台所が設けられていましたが、具体的な内容は不明です。
また台所跡の広場と二ノ丸との間には、通称「不明御門通り」と呼ばれる、南北に細長い腰曲輪があります。
不明門から本丸と二ノ丸との間の堀切の東端へ通じています。
台所門跡
不明御門通り
<蔵・米蔵>
腰曲輪の西側の吹上門を出て、坂を下ったところに「川口門」がありました。
その西側は北上古川が天然の水堀となっていました。
北上古川の対岸の菜園へは、屈曲した「筋違橋」で連絡していました。
吹上門の下から腰曲輪の南側には蔵や米蔵が建ち並んでいました。
現在は一棟だけ残り保存されています。
盛岡城址 蔵・米蔵
盛岡城址 蔵・米蔵
<盛岡城の堀>
盛岡城の遠曲輪、外曲輪の堀は、現在は道路となり、存在していません。
下曲輪と台所東側の堀、三ノ丸の北側に残るだけです。
<外曲輪門・盛岡城三大門>
盛岡城の北側を囲む外曲輪を「内丸」といいました。
現在の内丸官庁街です。
外曲輪の東側は中津川に面しており、北側から西側にかけて水堀をめぐらせています。
堀や川の内側には土塁があり、各辺に一ヶ所ずつの門を設けていました。
北側には「大手門(追手門)」、東側には「中ノ橋門」、西側には「日影門」がありました。
これを盛岡城三大門といいました。
また下の橋には搦手の「下ノ橋門」がありました。
外曲輪の内部、内丸には、南部氏の御一門や御三家をはじめ、重臣たちの屋敷が建ち並び、南西部には藩主の御用邸である「御新丸」や「清水御殿」がありました。
大手門跡
<遠曲輪>
盛岡の城下町は、中津川を境として、右岸を河北、左岸を河南としています。
河北は現在の本町や中央通、河南は上の橋町、紺屋町、肴町、下の橋町、南大通、馬場町などです。
この周囲には遠曲輪の堀がめぐっていました。
西側の堀は赤川堰-四ツ家の地蔵尊の裏にあった堰。
北側の堀は四ツ家町の北側-仁王小学校の前で赤川堰から分岐して、光照寺、大泉寺の北側をとおって下小路まで達していました。
東側の堀は上の橋の北側から始まり、加賀野小路の東側をとおり、肴町の東側から南大通を経て、南の新穀町惣門に達していました。
この堀に沿って七つの桝形(惣門)が設けられていました。
この7つの惣門は、西側から仁王惣門、四ツ家惣門、北山惣門、下小路惣門、東側は加賀野惣門、八幡町惣門、新穀町惣門がありました。
仁王惣門跡
四ツ家惣門跡
北山惣門跡
下小路惣門跡
加賀野惣門跡
八幡町惣門跡
新穀惣門跡
<東北三名城>
盛岡城、会津若松城、白河小峰城
<日本100名城(東北分)>
(城名) (所在地) (築城者)
弘前城 青森県弘前市 津軽為信
根城 青森県八戸市 南部師行
◎盛岡城 岩手県盛岡市 南部信直
多賀城 宮城県多賀城市 大野東人
仙台城 宮城県仙台市 伊達政宗
久保田城 秋田県秋田市 佐竹義宣
山形城 山形県山形市 斯波兼頼
二本松城 福島県二本松市 畠山満泰
◎会津若松城 福島県会津若松市 蘆名直盛
◎白河小峰城 福島県白河市 結城親朝
盛岡城址
<御前水 御田屋清水>
城下第一の清水として、公共・大奥御用、御茶道の水にあてられていました。
泉所には番所が設置されており番人を常置、「泉木戸」は常時施錠されていました。
泉水に添えて雌雄双鶴が放し飼いされていたと伝えられています。
御田屋清水の名称は、南部氏の故城三戸城の本丸下にも所在し、縁によってその故名を付けたと考えられています。
聖寿禅寺・東禅寺 | |
<南部藩主の菩提寺>
南部藩主の菩提寺は、盛岡城真北、通称北山の旧桜山に聖寿寺と東禅寺の2ヶ所があります。
聖寿寺は三戸より移転したもの。南部守行公の位牌所とされる東禅寺は閉伊郡附馬牛つきもうしより移転されたものです。
26代信直公の御墓は三戸郡南部町三光寺じ所在しています。
なお、古図によると歴代藩主の墓所は覆堂があり現状とは異なっていたようです。
聖寿寺最奥にある五輪塔は鎌倉時代のもので大正10年に鎌倉から移転され、
初代 南部光行公
9代 南部祐政公
11代 南部信長公
12代 南部政行公
といわれています。
聖寿禅寺・東禅寺
<聖寿禅寺>
岩手県盛岡市北山2丁目12-15
大光山、臨済宗妙心寿派
寺伝によれば、建保年間(1213~1219年)に初代南部光行公の菩提のために三戸に建立しました。以後南部家の菩提寺となります。
開山は国済国師で、本尊は釈迦如来です。
慶長年間に盛岡に移されました。
安産地蔵として祭られている「お亀地蔵」があります。
中興の祖、大道和尚は当時の上田地区の開発の恩人でもあります。
上田に本寺が移されてから北山と称したといわれています。寺領五百石でした。
<東禅寺>
岩手県盛岡市北山2丁目9-17
大宝山、臨済宗
寺伝によれば、本尊釈迦如来は遠野の豪族阿曾沼妙春の寄進によります。
開山は建武年間無尽妙代大師によります。
開基は南部13代守行公で、重直公のときに三戸より盛岡に開創しました。
境内には天明飢餓の「4人供養塔」があります。
寺領二百四十石でした。
歴代南部盛岡藩主一覧表
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