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盛岡ヒストリー 鎌倉時代~安土・桃山時代 斯波氏・高水寺城 斯波氏・家臣団


室町の名門 足利

1191年(建久2年)、泰衡の家臣 大河兼任が反乱を起こすと、源頼朝は足利義兼等に反乱追討を命じました。
足利義兼はこの大河兼任の乱を鎮定すると、この恩賞により斯波郡を与えられました。
その後、義兼の曽孫 足利家氏は斯波郡の地名を名字として「斯波氏」を名乗りました。
以後、家氏-宗家-家貞-高経-家長と続きました。
1335年(建武2年)、斯波家長は足利尊氏によって奥州管領に任ぜられ斯波郡に下向、高水寺に依り、多賀国府の南朝軍陸奥守北畠顕家と対抗しました。
室町時代に入ると、北上川河東の川村氏を従属させ、さらに雫石郷、太田郷、大釜郷を占領、雫石には二男詮貞、太田猪去には三男詮義、大釜郷には多田氏を配し66郷を領しました。
1549年(天文18年)頃より三戸南部氏が南下政策を開始、一進一退の攻防でしたが、1588年(天正16年8月)、三戸、南部信直の総攻撃を受けて滅亡しました。
斯波氏は足利将軍家につながる名門で同族の京都斯波氏は三管領の1つとして幕政に参与しました。
 





鎌倉時代~安土桃山時代




 

斯波氏・高水寺城


高水寺城

高水寺城



 

鎌倉時代 <足利義兼、奥州合戦に二度参戦す>



□ 1189年(文治5年)
足利義兼は、源頼朝の奥州藤原氏攻めに参戦した。
足利義兼は頼朝の従兄弟で、義兼の妻は頼朝の妻政子の妹である。

□ 1190年(建久元年)
大河兼任の乱起こる。
泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。
津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。
伊沢家景を陸奥国留守職とする。

□ 1191年(建久2年)
頼朝、大河兼任討伐軍を編成。 東海道大将軍、千葉介常胤、東山道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る。
この時、義兼勝利の論功行賞により斯波郡を拝領す。

□ 1243年(寛元元年)
義兼の曽孫、足利家氏は斯波郡高水寺に着任し、斯波家氏を名乗る。
これが足利氏が斯波氏を名乗る最初である。
家氏は泰氏の長男であったが弟の頼氏が足利宗家を継いだ。
これは頼氏の母は北条一門の名越氏出身であったためである。
以後家氏→宗家→家貞と続く。

□ 1333年(正慶2年)
足利尊氏、幕府軍を率いて上洛。
幕府に反旗をひるがえし六波羅探題を滅亡させる。
同年新田義貞も挙兵し鎌倉に進軍し鎌倉幕府を滅亡させた。


 



斯波氏系図

斯波氏系図



 



高水寺城

高水寺城





 


鎌倉時代後期の地頭


 

鎌倉時代後期の領地の分布



文治5年の奥州合戦で勝利した鎌倉武士のなかで最大の論功行賞を受けたのは、武蔵の国の葛西清重で、奥州奉行に任じられました。
現在の岩手県南部から宮城県北東部に至る広大な土地を与えられました。

岩手郡は工藤氏。

足利氏は斯波郡と宮城県加美郡(現宮城県大崎市)の2ヶ所が与えられ、鎌倉時代の初期から入部していました。

稗貫、和賀郡には中条氏(稗貫、和賀氏)。

閉伊郡の閉伊氏は近江国(現滋賀県)の佐々木氏の一族で早くから北条氏に属していました。

糖部郡(現岩手県二戸郡と青森県)は北条得宗領でした。

鎌倉時代の中頃から北条得宗家の権力が強まるにつれて、各地の地頭たちは北条家への家臣となるものが多くなり、地頭職も北条氏へと移行していきました。
また北条氏直属の被官として津軽安藤氏と閉伊佐々木氏がおり、津軽安藤氏は北条氏御内人で蝦夷管領として北方交易や日本海交易に強大な力がありました。

この段階では糖部郡は北条得宗領であり、南部氏の所領は見あたりません。


 



高水寺城

高水寺城



高水寺城

高水寺城




 

岩出山城と高水寺城



現宮城県大崎市は足利氏の所領で南北朝時代、奥州探題であった斯波(足利)家兼により築城され、岩手沢城と呼ばれていました。
安土・桃山時代、大崎(斯波)氏は秀吉の鎌倉攻めに参戦しなかったため領地没収となり、伊達政宗に与えられました。
このとき正宗は、岩手沢城を岩出山城と改称し、10年居住しました。

 



岩出山有備館

岩出山有備館



岩出山城

岩出山城




 

南北朝時代 <北朝軍-奥州管領>



□ 1334年(建武元年)
建武の中興。
後醍醐帝、北畠顕家を陸奥守として奥州多賀国府に派遣。
南部師行、糖部郡代となり八戸根城を築城。

□ 1335年(建武2年)
足利尊氏、弟家長を陸奥守(奥州管領兼奥州大将軍)として斯波郡高水寺に下向させ、高水寺城を築城させる。

□ 1336年(建武3年)
南朝、義良親王を陸奥大守、顕家を鎮守府将軍に任命。
同年、北朝尊氏、家貞の子家兼を陸奥国探題に任命。
家兼、斯波氏を名乗り岩手沢城(現宮城県大崎市岩出山城)を築城。
のち大崎氏を名乗る。

□ 1337年(延元2年)
斯波家長郡、鎌倉で顕家軍と戦い、家長敗れて、杉本観音堂で自殺、17才であった。

□ 1338年(延元3年)
北畠顕家、大坂和泉石津の戦いに敗れて討死する。
北畠親房、後任に次男顕信を陸奥介鎮守大将軍に任命す。

□ 1340年(興国元年)
北畠顕信、吉野朝から奥州に出陣し、石巻の日和山に将軍府を置く。

□ 1341年(興国2年)
将軍顕信、八戸南部政長、滴石の戸沢、和賀、河村氏に対し北朝軍(斯波氏)を対治指令し、厨川合戦を発動す。厨川城攻撃を受け南朝優勢。

□ 1345年(興国6年)
将軍顕信、南出羽より滴石に出陣。

□ 1346年(正平元年)
将軍顕信、滴石に滴石御所を開設。(現つなぎ温泉か?)

□ 1350年(正平5年)
上田城合戦を指揮、(現盛岡市)南朝勝利。

□ 1351年(正平6年)
将軍顕信、滴石御所より出陣し、府中奪回作戦、府中の占拠に成功。

□ 1352年(正平7年)
北朝、斯波、大崎氏、府中を攻撃、顕信敗れて滴石御所より福島県宇津峰城に移る。
これにより南朝の力が弱まる。

□ 1392年(明徳3年)
南北両朝合体す。


 


高水寺城概要図


 



高水寺城跡全景

高水寺城跡全景




 

室町時代 <室町の名門 足利>



□ 1396年(応永3年)
建武の中興以来一貫して南朝軍であった大巻館の河村秀基が斯波氏に仕えることになった。

□ 1411年(応永18年)
南部守行陸奥国司に任ぜられる。

□ 1492年(明応元年)
陸前国の大崎(斯波)教兼が斯波郡の地頭職となる。

□ 1495年(明応4年)
大崎教兼の子詮高、高水寺城に住む。

□ 1521年(大永元年)
糖部南部氏と和賀氏、斯波の郡山で合戦す。

□ 1537年(天文6年)
斯波の郡山において和賀義方と南部晴政の両勢衝突、和賀方敗退する。

□ 1540年(天文9年)
南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏敗れて角館に敗走す。滴石は南部領となる。

□ 1545年(天文14年)
斯波氏は岩手郡太田(現盛岡市太田)、南部滴石城を攻略。
南部晴政軍敗れて三戸に敗走す。
同年斯波氏滴石城を雫石城(雫石御所)に改め、詮高の二男詮貞を城主とし雫石詮貞を名乗る。また太田にも三男詮義を猪去館(猪去御所)に配置した。
これにより斯波氏、66郷を領す

□ 1549年(天文18年)
斯波領農民と南部領農民の間に論争があり、斯波方は南部領に侵入。
その結果、雫石川下流は斯波領となった。
この後、斯波氏と南部氏の戦いが繰り返されたが勝負はつかず、侵略した土地は南部方へ返還することで和解した。

□ 1571年(元亀2年)
斯波領農民と南部領農民との間にまた紛争が起きる。

□ 1572年(元亀3年)
紛争が原因で、合戦が起こった。斯波方が破れて、見前郷を失った。


 










 

安土・桃山時代 <滅亡への道>



□ 1573年(天正元年)
斯波氏は南部氏の支族九戸政実の弟、弥五郎を娘婿に迎え、知行地として高田村を与えた。弥五郎は高田吉兵衛と改名し高水寺城の一郭に居住した。

□ 1583年(天正11年)
南部信直、斯波の大萱生氏を攻撃す。

□ 1586年(天正14年)
高田吉兵衛は斯波氏との間が不和となり、身の危険を察し斯波方を脱出し、三戸南部に逃げ帰った。
同年高田吉兵衛を南部氏に帰属させて、岩手郡中野館に入れる。
斯波軍、岩手郡に進攻したが撃退される。
南部信直、斯波雫石城を攻略。斯波雫石氏高水寺城に敗走す。

□ 1588年(天正16年2月)
15代将軍足利義昭、征夷大将軍位を辞す。これにより斯波氏は急激に衰退す。

□ 1588年(天正16年8月)
南部信直、大軍をもって斯波高水寺城を攻略。斯波詮直は山王海に走り斯波氏滅亡す。
斯波氏は、家長から詮直まで約250年間、斯波郡を支配したが南部領に組み込まれていった。
この年南部信直は斯波を志和に改名す。


 










 

<郡山城>



□ 1591年(天正19年)
南部氏、高水寺城を修復して郡山城と改称。

□ 1592年(天正20年)
秀吉の一国一城主義により南部領内48ヶ城のうち36城を破却したが、郡山城は破却せず。盛岡城工事中は、この郡山城を宿館とした。南部利直は10年間居住した。

□ 1667年(寛文7年8月)
郡山城破却。


 





 

猪去御所(猪去城)


猪去御所(猪去城)

猪去御所(猪去城)



 

<猪去御所-猪去城>



所在地 盛岡市太田猪去釈迦堂・橋場

宗家斯波詮高-志和御所(高水寺城)、二男詮貞-雫石御所(雫石城)、三男詮義-猪去御所(猪去城)と並んで斯波氏三御所と呼ばれました。

猪去御所は猪去兵庫介詮義の築城です。
斯波詮高の三男が初代猪去城主でした。
太田大松院舘多田氏、飯岡城主飯岡氏とともに1546年(天文15年)~1588年(天正16年)8月まで約42年間斯波領として雫石川下流域を支配しました。
2代目猪去蔵人義方、3代目久道の代に宗家高水寺城が南部信直の攻撃を受け落城。
このとき猪去御所もともに落城しました。
その後 南部利直 慶長中、花巻郡代、北信愛の家臣となり50石を領しました。

 



猪去御所(猪去城)跡地

猪去御所(猪去城)跡地



猪去御所(猪去城)跡地

猪去御所(猪去城)跡地



 



猪去御所(猪去城)跡地

猪去御所(猪去城)跡地




 

<斯波氏、雫石氏、猪去氏系図>



(志和御所)高水寺城
斯波詮高─┬─経詮──詮真──詮直──詮種
             (詮基)
     
      雫石御所(雫石氏祖)
     ├─詮貞──詮貴──久詮──久資
      詮高二男
     
      猪去御所(猪去氏祖)
     └─詮義──義方──久道──基久
       詮高三男



 



猪去御所(猪去城)跡地


猪去御所(猪去城)跡地


 



猪去御所(猪去城)跡

猪去御所(猪去城)跡




 

飯岡城(館)


飯岡城

飯岡城



 

<飯岡氏の歴史>



飯岡氏の歴史は古く、平安末期の奥州藤原氏の家臣で、岩手郡と紫波郡の境界の守備のために飯岡郷に配置され飯岡氏を名乗ったと伝えられています。
本姓は工藤です。
奥州藤原氏が源頼朝に敗れ、藤原氏が滅ぶと、岩手郡一帯は源頼朝の家臣、工藤氏に与えられました。
これにより鎌倉時代の飯岡氏は厨川工藤氏の家臣として仕えたといいます。
鎌倉幕府が亡び、南北朝時代に入ると、北朝軍、高水寺斯波氏の配下となり、南朝軍と戦いました。
室町時代は高水寺斯波氏の重臣と地頭職として650石が与えられ、18名の家来を召し抱えていました。
室町末期の飯岡氏には娘2人がおり、1人は雫石城主 雫石詮貴の妻であり、もう1人は田頭城主 田頭金七の妻でした。
また飯岡氏の家臣として、湯沢大館城主 杉山一学、羽場百目木小館城主 岩倉常太郎は、飯岡氏の目付役として知られています。

□ 1572年(元亀3年)
飯岡氏、斯波氏のために三戸南部勢と合戦、敗れて落城す。
このときの城主は飯岡平九郎とも飯岡正太郎とも言って確証がない。

下って南部利直の代には、飯岡祐貫は南部家の家臣となり70石を与えられています。
現在の盛岡市西部地区の南部氏以前の歴史を語る場合、飯岡氏や猪去氏、雫石氏は重要です。


 



飯岡千手観音

飯岡千手観音



飯岡千手観音

飯岡千手観音



 



飯岡城跡地

飯岡城跡地




 

<飯岡氏系図>



<飯岡氏系図>

飯岡氏─┬─飯岡弥六郎──祐貫祐詮──祐房

     飯岡城主   仕 利直

            70石  飯岡方三郎


    ├─

     雫石城主 雫石詮貴の妻

    

    └─

      田頭城主 田頭金七の妻


 



秋葉神社

秋葉神社



秋葉神社

秋葉神社



 



高舘古墳

高舘古墳



高舘古墳

高舘古墳



 



飯岡館山

飯岡館山




 

<飯岡城(館)>



所在地 盛岡市上飯岡字赤坂

飯岡館は飯岡山の北東に張り出した丘陵にあります。
城内には現在、秋葉神社、飯岡観音、高館古墳があります。
下は鹿妻穴堰の水路が流れ、秋葉神社が本丸跡と思われます。
その奥の山頂は敵見櫓跡と思われ、展望が良く、後ろは空堀が二重に切られ、テラスがあります。
館のふもとは空堀で囲まれ、平地には上飯岡集落があります。
平地の集落には、館、柄目(搦手)、在家、外堀・旧大手、新大手などの屋号や地名が残っています。
また付近には飯岡氏の菩提寺 長善寺があり、飯岡氏の墓所があります。
上盛岡集落から南方にあたる羽場には飯岡氏の目付 岩倉常太郎がいたという小館城跡があり、さらに湯沢には飯岡氏の家臣 杉山一学がいたという湯沢大館城跡があります。
東方には向中野城跡があり、飯岡城を守る出城になっています。


 



長善寺

長善寺



長善寺

長善寺



 



飯岡城跡地

飯岡城跡地





鎌倉時代~戦国時代




 

川村氏・大巻城


大巻城跡地

大巻城跡地



 

<河村氏>



河村氏の発祥の地は、相模国足柄上郡河村郷(現神奈川県足柄上郡山北町)といわれます。
藤原秀郷の十一世河村秀高の四男秀清が、陸奥河村氏の祖となりました。
□ 1180年(治承4年)
秀清の兄 義秀は石橋山の合戦で、平家方に味方したため、所領を没収され斬罪を申しつけられたが、母が政子の侍女となった京極の局であったことから許されて蟄居していた。

□ 1189年(文治5年)
そこで、13才の千鶴丸は名を隠して、頼朝の奥州攻めに従軍した。
阿津賀志山の戦いで奪戦し、頼朝の目にとまり、加々美次郎長清が鳥帽子親となって元服して、名を「四郎秀清」と改めた。
論功行賞により、岩手郡・志波郡の北上川東部地区を与えられ、彦部の大巻館(現紫波町彦部大巻)に、本拠を構えた。
しかし秀清は拝領した領地に留まることなく相模国に戻り、一族の時秀の子、貞秀が配置され、その子孫が奥州河村氏の分流となった。


 



大巻城跡地

大巻城跡地



大巻城跡地

大巻城跡地




 

<南北朝時代-河村氏南朝に属す>



□ 1340年(興国元年)春
南朝軍、陸奥介鎮守府将軍北畠顕信、吉野朝から奥州に出陣し、石巻の日和山城(葛西氏)に将軍府を置く。
この年河村氏は南朝軍に属す。

□ 1341年(興国2年)3月
顕信将軍、八戸南部長政、滴石の戸沢、河村、和賀に対し北朝軍を対治指令し栗屋川合戦を発動す。

□ 1345年(興国6年)9月
顕信将軍、南出羽より岩手郡滴石に出陣。
同年、将軍南部長政に命じ、葛西、和賀、戸沢、川村等とともに斯波郡高水寺を攻める。

□ 1350年(正平5年)3月
顕信将軍、上田城合戦を指揮する。

□ 1352年(正平7年)7月
顕信将軍、滴石御所より福島県宇津峰城に移る。

□ 1356~1360年(延文年間)
河村氏、北朝斯波氏に対抗できなくなってくる。

□ 1392年(明徳3年)
南北朝合体す。


 

<室町時代-河村氏斯波氏(足利氏)に属す>



□ 1396年(応永3年)
河村秀基、斯波氏に仕えて、佐比内、木更津村を与えられる。
以後、150年間斯波氏の下で平和な時代が続く。
川村氏の一族は繁栄し、大萱生氏、栃内氏、手代森氏、江柄氏、大巻氏、長内氏、日戸氏、玉山氏、川口氏、渋民氏、沼宮内氏、下田氏に分流した。


 

<戦国時代-岩手郡内の川村氏(日戸、玉山、川口、渋民、沼宮内、下田の諸氏)南部氏に仕える>



□ 1540年(天文9年)8月
三戸の南部晴政が叔父石川高信の献策によって岩手郡に勢力拡大を図り、高信を使者として岩手郡内の川村氏、工藤氏、戸沢氏に対し、三戸に参向して南部氏に服従することを誓うことを伝えた。
川村氏(下田、沼宮内、川口、渋民、玉山、日戸の諸氏)と厨川工藤氏(田頭、平館、葛巻の諸氏)はこの申し出に従った。
しかし滴石戸沢政安はこれを拒否した。
これにより石川高信、滴石城を攻略、戸沢政安破れて角館に敗走する。




 
玉山館跡
玉山館跡

 

玉山館跡たまやまたてあと




所在地/岩手県盛岡市玉山区玉山字一笠たまやまくたまやまあざいちかさ

城内じょうない地区の古刹、東楽寺とうらくじの北東にある山城です。
大館・小館の2つの館で構成されています。
大館は、東西約70m、南北約110mで、上から見ると台形の形をしています。
北川の小館は、東西約25m、南北約40mで、三角形の形をしています。
大館と小館の間には堀があります。


日戸館跡
日戸館跡

 

日戸館跡ひのとたてあと




所在地/岩手県盛岡市玉山区日戸字古屋敷たまやまくひのとあざふるやしき

日戸館は、常光寺の西側にある山城です。
それぞれ堀で区切られた上館・中館・下館の3つの館からなり、館全体の大きさは、東西約200m、南北約100mになります。
日戸館は、河村一族の一人、日戸氏の居館です。



下田館跡
下田館跡

 

下田館跡しもだたてあと




所在地/岩手県盛岡市玉山区下田字生出袋たまやまくしもだあざおいでぶくろ

下田館は、曹洞宗の寺院喜雲寺きうんじ西側に隣接しています。
北上川きたかみがわ松川まつかわ生出川おいでがわに三方を囲まれた館で、東西約100m、南北約200mの大きさです。
河村一族の一人、下田弥三郎秀祐の居館でした。





















盛岡略年表


 

縄文・弥生・大和時代


B.C.6000~





奈良時代


749 勝宝元年

奥州から初めて黄金を献じた



770 宝亀元年

坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍とする



789 延暦8年

紀古佐美征討将軍、胆沢の地を大軍で攻めたが大敗



794 延暦13年

坂上田村麻呂を征夷副将軍に命じ胆沢の蝦夷を征す



797 延暦16年

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ず



平安時代


802 延暦21年

坂上田村麻呂、胆沢城を築く



803 延暦22年

坂上田村麻呂、志波城を築く。この年、征夷大将軍を辞職する



804 延暦23年

田村麻呂を征夷大将軍に再任する



811 弘仁2年

和我、稗縫、斯波の三郡建置。同年文室綿麻呂を征夷将軍に任ず



813 弘仁4年

徳丹城が設置される



1051 永承6年

安倍頼良そむき、源頼義を陸奥守に任じて追討す



1056 天喜4年

前九年の役おこる



1062 慶平5年

前九年の役おわる。源頼義、厨川柵にて安倍貞任、藤原経清を斬る



1081 永保元年

源義家、陸奥守に任命される



1083 永保3年

藤原清衡に伊沢・江刺・和賀、藤原家衡に稗貫・志波・岩手郡を分領させる。後三年の役はじまる



1087 寛治元年

源義家、金沢柵陥落し、清原氏滅亡する。後三年の役おわる



1089 寛治3年

藤原清衡、陸奥押領使となり、伊沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡を領し、江刺郡豊田館に居住す



1124 天治元年

藤原清衡、中尊寺金色堂を建立す



1126 大治元年

清衡、中尊寺金堂・三重塔などを建立す



1156 保元元年

保元の乱



1170 嘉応2年

藤原秀衡、鎮守将軍となる



1175 安元元年

藤原俊衡、樋瓜館に住む



1184 寿永3年

平兼盛、磐手郡滴石戸沢に移り住む



1187 文治3年

藤原秀衡、死去



1189 文治5年

奥州合戦、源頼朝、藤原泰衡を攻める。伊達郡阿津賀志山の合戦で、三沢安藤四郎の兵略によって奥州軍敗走。河田次郎の裏切りにより泰衡討たれる。葛西清重、頼朝より陸奥国御家人の奉行を命じられる。また津軽には宇佐美平次実政を惣地頭として派遣。頼朝、鎌倉へ帰途。工藤小次郎行光に岩手郡を与える



1190 建久元年

大川兼任の乱、泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とす



1192 建久2年

頼朝、東海道大将軍、千葉介常胤、東海道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る



鎌倉時代


1268 文永5年

足利尾張守家氏。斯波郡に下向。高水寺に在城す



1333 元弘3年

南部信長、岩手郡厨川の工藤氏を攻めて降す



1334 建武元年

北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷を給す



室町時代南北朝


1334 建武元年

建武の中興 鎮守府将軍北畠顕家、奥州津軽に下向。南部師行を郡代として八戸根城を築城。また子、顕成に津軽浪岡を所領として与える



1335 建武2年

足利尊氏、斯波家長を奥州管領として高水寺城に下向させる



1336 建武3年

十三湊安藤師季、八戸根城を攻撃



1338 延元3年

北畠顕家、南部師行、大阪、和泉、石津において戦死。十三湊、大津波に襲われる。藤崎城主安藤秀光、大光寺に入り大光寺氏を名乗る



1341 興国2年

北畠顕信、将軍となり、厨川合戦を発動す。この年顕信、滴石御所を開く。安藤師秀、八戸南部政長の勧誘に応じ南朝方となる



1392 明徳3年

南北両朝合体す



室町時代


1411 応永18年

三戸南部守行、秋田湊の安藤鹿季と出羽仙北に戦う



1418 応永25年

「関東大名南部」上洛。将軍義持に馬100頭・金1,000両を献上す。この後「本八戸城」築城か?



1423 応永30年

安藤陸奥守、新将軍義量就任の賀として馬20頭・鳥5,000羽・銭2万疋・海虎(ラッコ)の皮30枚・昆布500把を献上



1432 永享4年

十三湊、安藤盛季、康季南部守行に敗れ、蝦夷ヶ島に敗走。幕府、調停に乗りだす



1436 永享8年

八戸糖部南部、斯波で和賀氏と合戦す



1443 嘉吉3年

津軽十三湊、安藤義季、三戸南部義政に敗れ蝦夷地に敗走す



1445 文安2年

安藤義季、津軽西浜に上陸



1453 享徳2年

安藤義季、南部氏に敗れ自害



1454 享徳3年

湊安東政季、南部氏に敗れて函館に敗走す



1456 康正2年

安東政季、秋田に上陸し檜山城を築く



1467 応仁元年

浪岡北畠顕義、浪岡城築城



1470 文明2年

安東師季、津軽回復を目指し藤崎館を攻めるが成功せず



1491 延徳3年

南部久慈光信、津軽西浜種里城に入る



1492 明応元年

陸前国の大崎教兼が斯波郡の地頭職となる



1495 明応4年

大崎教兼の子、詮高、高水寺城に住む



1498 明応7年

南部光康、横内城(現青森市)を築城す



1502 文亀2年

南部久慈光信、大浦城を築き、嫡男盛信を置く



1521 大永元年

糠部南部氏と和賀氏、斯波郡の郡山で合戦す



1524 大永3年

三戸南部安信、津軽地方を平定す



1533 天文2年

南部安信の弟高信、津軽の反乱を鎮圧する。高信は津軽郡代に任じられ、石川城(後弘前城)に拠る



1537 天文6年

三戸南部氏、南部晴政、斯波の郡山で和賀氏と合戦、和賀氏敗退す



1539 天文8年

南部彦三郎安政、上洛、将軍義晴より偏諱をうけ晴政と改名



1540 天文9年

南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏新庄に敗走す



1545 天文14年

斯波氏、南部滴石城を攻略、三戸南部晴政軍敗れて三戸に退く



1562 永禄5年

檜山安東愛季、比内長岡城を攻め浅利則祐を自害させる



1567 永禄10年

大浦為信、義父為則の跡を継ぎ大浦城主となる



1569 永禄12年

安東愛季の軍勢、南部領鹿角郡に侵攻。南部石川高信これを破る



1571 元亀2年

大浦為信、石川城を攻略、石川高信、自害す



1572 元亀3年

斯波氏、南部晴政軍に敗れ、見前郷を失う。斯波氏、九戸政実の弟、弥五郎(高田吉兵衛)を女婿に迎える



安土・桃山時代


1578 天正6年

大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる



1579 天正7年

安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開



1582 天正10年

南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする



1583 天正11年

安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合



1585 天正13年

大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗



1586 天正14年

南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ



1588 天正16年

三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡



1589 天正17年

湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる



1590 天正18年

南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏



1591 天正19年

九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める



1592 文禄元年

南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる



1594 文禄3年

南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す



1597 慶長2年

盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる



1598 慶長3年

南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡



1599 慶長4年

南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる



1600 慶長5年

家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣



1601 慶長6年

利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡)



1602 慶長7年

鹿角白根金山が発見される



江戸時代


1614 慶長19年

利直、大阪冬の陣に出陣



1615 元和元年

大阪夏の陣おこる



1625 寛永元年

三戸旧城下の町民を盛岡に移す



1632 寛永9年

南部利直が江戸桜田邸で逝去す



1633 寛永10年

南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める







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