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盛岡ヒストリー 昭和時代


激動の昭和

昭和は昭和金融恐慌から始まりました。
そして昭和4年、世界恐慌へ。
軍事、外交面では、満州事変→満州国建国→支那事変と進み、第二次世界大戦、日独伊三国軍事同盟と進みました。
昭和16年、真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入。
昭和20年8月、ポツダム宣言を受諾、そして終戦しました。
戦後は、昭和22年日本国憲法施行、25年朝鮮戦争発生、30年神武景気、32年なべ底不況、33年岩戸景気、39年東京オリンピックを開催、このオリンピックにあわせて大阪-東京間の東海道新幹線が開業しました。
昭和40年日韓基本条約、41年いざなぎ景気、45年日本万国博覧会。
昭和47年は行事の多い年で、札幌オリンピック、沖縄返還、日中共同声明、そしてあのあさま山荘事件が起きました。
53年は日中平和友好条約、57年には東北新幹線、大宮~盛岡間が開通しました。
昭和60年には日本電信電話公社、日本専売公社が民営化、61年は東京サミット、62年にはバブル景気が本格化しました。
昭和63年青函トンネル、瀬戸大橋開業、64年1月昭和天皇崩御、1月8日平成と改元、ここに昭和の時代は終わりました。
 





昭和




 

米内光政墓・円光寺






 

紫雲山 圓光寺



円光寺は寛文年間(1661年~73年)に生連社良往上人によって開かれた。
現存の本堂、山門、鐘楼は、その後まもなく建立されたもので、本堂は江戸時代の地方寺院を代表とする、市の保存建築物に指定されている。

本堂前に創建時に植えたと推定される、樹齢300年のカツラの大木が枝を広げる。
雌雄であることから、「夫婦めおとかつら」と呼ばれるが、春先には紫色の花が木を覆い、紫雲山の名にふさわしい姿をみせるという。
境内には落ち着いた木肌をみせる観音堂が建つが、その脇に立派な「首塚」と記された石柱が立つ。
その由来は延宝3年(1675年)にまでさかのぼる。

時の南部藩の奥女中に蓮子という娘がいた。
あるとき父がキリシタン信者ということで斬首となったが、蓮子はその夜、闇に紛れ、父の首を盗み、回向を願って寺々を回った。
寺々の門は閉ざされていたが、ただひとつ円光寺の脇門が開いていた。
これを幸いに回向を依頼、住職は寺の運命を思ったが、回向は僧の勤めと、ひそかに読経し埋葬した。
蓮子は翌朝、自首をしたが、藩主はその親孝行に胸を打たれ、蓮子を側室に。
その間に生まれたのが31代藩主信恩のぶおき公と伝えられる。

のちに蓮子は父の菩提を弔うために観音堂を寄進、現在は盛岡の観音11番札所となっている。

また、寺には近代に活躍した名士も眠っている。
連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣(昭和15年)を歴任した米内光政よないみつまさ氏、その人である。

米内氏は戦争の気運が高まるなかで、親米英派の内閣を組閣し、開戦を防ごうとした政治家で、陸軍派に押され退陣したが、19年7月から海軍大臣で復帰し、戦争終結にむけて日本が灰塵となるのを防ぐ先頭に立っている。

(浄土宗新聞 平成9年6月号より)


 
住所 〒020-0874 岩手県盛岡市南大通3丁目11番49号


 



米内光政墓・円光寺


米内光政墓・円光寺


 


米内光政墓・円光寺




米内光政


米内光政

 


旧盛岡藩士米内受政よないながまさの長男として盛岡に生まれる。
盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。
後にロシアやポーランドなどヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。
1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。
この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。
天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任、しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。
太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。
終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。




米内光政 経歴


1880(明治13)0歳
3月2日南岩手郡三ツ割村下小路(現盛岡市愛宕町)に生まれる。

1886(明治19)6歳
鍛冶町尋常小学校(現在の上ノ橋辺りにあった)に入学。

1890(明治23)10歳
盛岡高等小学校(現下橋中学校)に入学。

1894(明治27)14歳
岩手尋常中学校(現盛岡第一高等学校)に入学。

1898(明治31)18歳
海軍兵学校(広島県江田島市)に入学。

1901(明治34)21歳
海軍兵学校卒業後,海軍少尉候補生として練習艦金剛に乗船する。その後様々な艦を乗り継ぐ。

1904(明治37)24歳
海軍中尉に就任。

日露戦争開戦

1914(大正3)34歳

第一次世界大戦勃発

1915(大正4)35歳
ロシア大使館付武官事務補佐に従事。1917(大正6)年には船上勤務に戻るが,この後にもヨーロッパでの仕事に就く。この間の経験が後の米内の世界観につながる。

1930(昭和5)50歳
海軍中将に任ぜられ,鎮海要港部司令官となる。この後第三艦隊司令長官,連合艦隊司令長官等を歴任。

1936(昭和11)56歳
二・二六事件が起こる。当初から首謀者を反乱軍として事件に対処する。

1937(昭和12)57歳
海軍大臣となり日独伊三国軍事同盟に反対。その後3期務める。

1940(昭和15)60歳
内閣総理大臣となる。対英米戦争に反対するが,陸軍大臣畑俊六が辞任,半年で内閣が倒れる。

1941(昭和16)61歳

第二次世界大戦勃発

1944(昭和19)64歳
4期目の海軍大臣に就任,戦争終結に力を尽くす。最終的には7期海軍大臣を務めることとなる。

1945(昭和20)65歳
終戦後、最後の海軍大臣として海軍省の幕を下ろす。

第二次世界大戦終了

1947(昭和22)67歳
極東軍事裁判法廷に元陸軍大臣畑俊六の証人として出廷。

1948(昭和23)68歳
4月20日死去。


 


米内光政墓・円光寺




あらえびす記念館


野村胡堂・あらえびす記念館

あらえびす記念館




 

銭形平次捕物控



昭和6年、文藝春秋社が、月刊誌「オール讀物」を創刊、捕物小説を毎月書いてくれないかと依頼されました。
いろいろ構想を練り、主人公を江戸の町の一介の目明しとしますが、ただの御用聞きではつまりません。
「水滸伝」の「没羽箭張清」と言う、石つぶてで敵将を次々倒す小石投げの名人から四文銭を投げる目明しを思いつきました。

万治、寛文、元禄の時代を背景に、頭脳明晰で正義感あふれる岡っ引き銭形平次が、江戸の町に起こるさまざまな事件を、人情味豊かに次々と解決してゆくという捕物小説。

「親分!た、た、た、大変だ」といつも事件を知らせて飛び込んでくるガラッ八こと八五郎。
徳川時代の鯉丈の「八笑人」からヒントを得たという八五郎は、独身で、呑気者で、無欲で、純情家で惚れっぽい天性のユーモリスト。
それが、物語のスムーズな展開を助けます。
「銭形平次捕物控」は383篇続いた、世界一長い探偵小説で、まさに胡堂の代表作です。

 



野村胡堂・あらえびす記念館

野村胡堂・あらえびす記念館



野村胡堂・あらえびす記念館

野村胡堂・あらえびす記念館




 

<野村胡堂・あらえびす略年譜>



□ 1882年 明治15年 0歳 10月15日、岩手県紫波郡大巻村(現紫波町大巻)に生まれる。
□ 1896年 明治29年 14歳 岩手県尋常中学校(明治34年より岩手県立盛岡中学校)に入学。新入生の中に金田一京助、田子一民、郷古潔、及川古志郎、小野寺直助。上級には米内光政、原抱琴がいた。
□ 1902年 明治35年 20歳 盛岡中学校卒業。上京。
□ 1904年 明治37年 22歳 旧制第一高等学校入学。当時の校長は新渡戸稲造。
その頃の生徒に辰野隆、三宅正太郎、山本寛太、小野寺直助、芦田均らがいた。

□ 1907年 明治40年 25歳 第一高等学校卒業。東京帝国大学法科大学仏法に入学。
□ 1910年 明治43年 28歳 同郷の橋本ハナと結婚。父長四郎死去。
□ 1911年 明治44年 29歳 大学卒業を目前に中退。
□ 1912年 明治45年 30歳 報知社(後の報知新聞社)に入社。
政治部外交記者として政友会本部、農商務省を担当。

□ 1914年 大正 3年 32歳 同新聞政治面に人物評論『人類館』を連載。
初めて「胡堂」のペンネームを用いる。

□ 1922年 大正11年 40歳 科学小説『二萬年前』を連載。調査部長兼学芸部長となる。
「あらえびす」のペンネームで音楽会、美術展に関する記事を書く。

□ 1924年 大正13年 42歳 編集局相談役になり、主力を執筆生活に移す。
□ 1931年 昭和 6年 49歳 文藝春秋社創刊「文藝春秋オール讀物号」に「銭形平次捕物控」第1作「金色の處女」を発表。
「あらえびす」最初の著書『蓄音機とレコード』刊行。

□ 1932年 昭和 7年 50歳 『三萬両五十三次』連載。
東京帝大法学部緑会主催のレコードコンサートを始める。

□ 1942年 昭和17年 60歳 報知新聞が読売新聞に合併。辞職し、執筆に専念する。
□ 1949年 昭和24年 67歳 捕物作家クラブ結成。会長に就任。
□ 1957年 昭和32年 75歳 眼疾悪化のため『オール讀物』8月号掲載の「鉄砲の音」で「銭形平次捕物控」の筆を擱く。総計383篇。
□ 1958年 昭和33年 76歳 第6回菊池寛賞受賞。
□ 1959年 昭和34年 77歳 紫波町最初の名誉町民に推挙される。
□ 1960年 昭和35年 78歳 紫綬褒章受賞。
□ 1963年 昭和38年 80歳 基金1億円で育英奨学金と学問芸術の研究助成を目的とする野村学芸財団設立。
4月14日肺炎のため死去。
従四位勲三等瑞宝賞に叙せられる。


 



野村胡堂・あらえびす記念館


野村胡堂・あらえびす記念館


 



野村胡堂・あらえびす記念館


野村胡堂・あらえびす記念館



 

野村胡堂・あらえびす記念館



TEL 019-676-6896
所在地 〒028-3315 岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193-1
ホームページ http://kodo.or.tv/

 


野村胡堂・あらえびす記念館




米内浄水場・垂れ桜


米内浄水場・垂れ桜

米内浄水場・垂れ桜




 

八重紅垂れ桜と浄水場



米内浄水場の八重垂れ桜は昭和9年8月、浄水場の竣工記念樹として9本が植えられたものです。
この八重垂れ桜は普通の垂れ桜より花が小さく濃い色をしています。
縦に伸びる大型の樹形です。
桜の種類としては極めて種類の少ない樹木です。
満開時は圧巻といわざるを得ません。
浄水場は平成11年8月、国の有形文化財に登録されました。

 



米内浄水場・垂れ桜


米内浄水場・垂れ桜


 


米内浄水場・垂れ桜



 

米内浄水場の年譜



□ 1928年(昭和3年)1月
盛岡市、都市計画法の適用を受ける。

□ 同年4月1日
米内村、盛岡市と合併。

□ 同年4月
盛岡水道利用組合が設立され河南地区に簡易水道が引かれた。

□ 1931年(昭和6年)8月
市議会に重要案件として水道敷設計画が出され、米内川を水源とする水道工事が進められることになった。これに伴い盛岡水道利用組合は市に買収された。

□ 1932年(昭和7年)10月
米内川浄水場建設起工式が行われた。

□ 1934年(昭和9年)11月23日
配水管理施設工事が完成。通水式が上米内浄水場で行われた。
このとき記念樹としてヤエベニシダレ桜9本が植樹された。

□ 1999年(平成11年)8月
米内浄水場、国の有形文化財に登録された。


 



米内浄水場・垂れ桜


米内浄水場・垂れ桜


 


米内浄水場・垂れ桜



 

浄水場建設の都市比較



盛岡は水に恵まれ湧水が多く、浅井戸を掘っても水が出るほど水が豊富な都市です。
このため水道の必要性が少なく、これが東北六県の主要都市の中で水道の普及が遅れた理由です。

秋田市 明治42年10月
青森市 明治42年12月
仙台市 大正12年4月
山形市 大正12年5月
福島市 大正14年4月
盛岡市 昭和9年8月

 



米内浄水場


米内浄水場


 


米内浄水場




盛岡市子ども科学館


盛岡市子ども科学館

盛岡市子ども科学館




 

盛岡市子ども科学館



「子どもたちに科学する心を!」をスローガンに、子どもはもちろん大人の方まで楽しく体験しながら科学技術に親しむことができます。
サイエンスドーム「宙~そら」(プラネタリウム室)170席と、「出発の空間」 「発見の空間」「情報の空間」の3つのテーマの展示室。
土、日、祝日には科学遊びや物づくり体験ができるワークショップやサイエンスショーを行っています。

TEL 019-634-1171
所在地 岩手県盛岡市本宮字蛇屋敷13-1

 


盛岡市子ども科学館




平成




 


岩手県立美術館


岩手県立美術館

岩手県立美術館




 

岩手県立美術館



萬鐵五郎、松本竣介、舟越保武をはじめ、岩手ゆかりの作家のコレクションを一堂に展示するとともに、国内外の様々なテーマによる企画展を開催。
美術に親しむ体験型イベント、グルメ、ショッピングも楽しめます。

TEL 019-658-1711
所在地 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3


 


岩手県立美術館
















盛岡略年表


 

縄文・弥生・大和時代


B.C.6000~





奈良時代


749 勝宝元年

奥州から初めて黄金を献じた



770 宝亀元年

坂上刈田麻呂を陸奥鎮守将軍とする



789 延暦8年

紀古佐美征討将軍、胆沢の地を大軍で攻めたが大敗



794 延暦13年

坂上田村麻呂を征夷副将軍に命じ胆沢の蝦夷を征す



797 延暦16年

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ず



平安時代


802 延暦21年

坂上田村麻呂、胆沢城を築く



803 延暦22年

坂上田村麻呂、志波城を築く。この年、征夷大将軍を辞職する



804 延暦23年

田村麻呂を征夷大将軍に再任する



811 弘仁2年

和我、稗縫、斯波の三郡建置。同年文室綿麻呂を征夷将軍に任ず



813 弘仁4年

徳丹城が設置される



1051 永承6年

安倍頼良そむき、源頼義を陸奥守に任じて追討す



1056 天喜4年

前九年の役おこる



1062 慶平5年

前九年の役おわる。源頼義、厨川柵にて安倍貞任、藤原経清を斬る



1081 永保元年

源義家、陸奥守に任命される



1083 永保3年

藤原清衡に伊沢・江刺・和賀、藤原家衡に稗貫・志波・岩手郡を分領させる。後三年の役はじまる



1087 寛治元年

源義家、金沢柵陥落し、清原氏滅亡する。後三年の役おわる



1089 寛治3年

藤原清衡、陸奥押領使となり、伊沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手の六郡を領し、江刺郡豊田館に居住す



1124 天治元年

藤原清衡、中尊寺金色堂を建立す



1126 大治元年

清衡、中尊寺金堂・三重塔などを建立す



1156 保元元年

保元の乱



1170 嘉応2年

藤原秀衡、鎮守将軍となる



1175 安元元年

藤原俊衡、樋瓜館に住む



1184 寿永3年

平兼盛、磐手郡滴石戸沢に移り住む



1187 文治3年

藤原秀衡、死去



1189 文治5年

奥州合戦、源頼朝、藤原泰衡を攻める。伊達郡阿津賀志山の合戦で、三沢安藤四郎の兵略によって奥州軍敗走。河田次郎の裏切りにより泰衡討たれる。葛西清重、頼朝より陸奥国御家人の奉行を命じられる。また津軽には宇佐美平次実政を惣地頭として派遣。頼朝、鎌倉へ帰途。工藤小次郎行光に岩手郡を与える



1190 建久元年

大川兼任の乱、泰衡の郎従、八郎潟の大河兼任、7,000余騎で鎌倉に反旗をひるがえす。津軽で鎌倉方の宇佐美実政、大見家秀敗れる。伊沢家景を陸奥国留守職とす



1192 建久2年

頼朝、東海道大将軍、千葉介常胤、東海道大将軍、比企能員、足利義兼を奥州に派遣し、栗原一迫、平泉衣川で兼任軍を破る



鎌倉時代


1268 文永5年

足利尾張守家氏。斯波郡に下向。高水寺に在城す



1333 元弘3年

南部信長、岩手郡厨川の工藤氏を攻めて降す



1334 建武元年

北畠顕家、新田孫五郎に岩手郡仁王郷を給す



室町時代南北朝


1334 建武元年

建武の中興 鎮守府将軍北畠顕家、奥州津軽に下向。南部師行を郡代として八戸根城を築城。また子、顕成に津軽浪岡を所領として与える



1335 建武2年

足利尊氏、斯波家長を奥州管領として高水寺城に下向させる



1336 建武3年

十三湊安藤師季、八戸根城を攻撃



1338 延元3年

北畠顕家、南部師行、大阪、和泉、石津において戦死。十三湊、大津波に襲われる。藤崎城主安藤秀光、大光寺に入り大光寺氏を名乗る



1341 興国2年

北畠顕信、将軍となり、厨川合戦を発動す。この年顕信、滴石御所を開く。安藤師秀、八戸南部政長の勧誘に応じ南朝方となる



1392 明徳3年

南北両朝合体す



室町時代


1411 応永18年

三戸南部守行、秋田湊の安藤鹿季と出羽仙北に戦う



1418 応永25年

「関東大名南部」上洛。将軍義持に馬100頭・金1,000両を献上す。この後「本八戸城」築城か?



1423 応永30年

安藤陸奥守、新将軍義量就任の賀として馬20頭・鳥5,000羽・銭2万疋・海虎(ラッコ)の皮30枚・昆布500把を献上



1432 永享4年

十三湊、安藤盛季、康季南部守行に敗れ、蝦夷ヶ島に敗走。幕府、調停に乗りだす



1436 永享8年

八戸糖部南部、斯波で和賀氏と合戦す



1443 嘉吉3年

津軽十三湊、安藤義季、三戸南部義政に敗れ蝦夷地に敗走す



1445 文安2年

安藤義季、津軽西浜に上陸



1453 享徳2年

安藤義季、南部氏に敗れ自害



1454 享徳3年

湊安東政季、南部氏に敗れて函館に敗走す



1456 康正2年

安東政季、秋田に上陸し檜山城を築く



1467 応仁元年

浪岡北畠顕義、浪岡城築城



1470 文明2年

安東師季、津軽回復を目指し藤崎館を攻めるが成功せず



1491 延徳3年

南部久慈光信、津軽西浜種里城に入る



1492 明応元年

陸前国の大崎教兼が斯波郡の地頭職となる



1495 明応4年

大崎教兼の子、詮高、高水寺城に住む



1498 明応7年

南部光康、横内城(現青森市)を築城す



1502 文亀2年

南部久慈光信、大浦城を築き、嫡男盛信を置く



1521 大永元年

糠部南部氏と和賀氏、斯波郡の郡山で合戦す



1524 大永3年

三戸南部安信、津軽地方を平定す



1533 天文2年

南部安信の弟高信、津軽の反乱を鎮圧する。高信は津軽郡代に任じられ、石川城(後弘前城)に拠る



1537 天文6年

三戸南部氏、南部晴政、斯波の郡山で和賀氏と合戦、和賀氏敗退す



1539 天文8年

南部彦三郎安政、上洛、将軍義晴より偏諱をうけ晴政と改名



1540 天文9年

南部晴政、戸沢滴石城を攻略。戸沢氏新庄に敗走す



1545 天文14年

斯波氏、南部滴石城を攻略、三戸南部晴政軍敗れて三戸に退く



1562 永禄5年

檜山安東愛季、比内長岡城を攻め浅利則祐を自害させる



1567 永禄10年

大浦為信、義父為則の跡を継ぎ大浦城主となる



1569 永禄12年

安東愛季の軍勢、南部領鹿角郡に侵攻。南部石川高信これを破る



1571 元亀2年

大浦為信、石川城を攻略、石川高信、自害す



1572 元亀3年

斯波氏、南部晴政軍に敗れ、見前郷を失う。斯波氏、九戸政実の弟、弥五郎(高田吉兵衛)を女婿に迎える



安土・桃山時代


1578 天正6年

大浦為信波岡城を攻略し浪岡御所北畠顕村を自害させる



1579 天正7年

安東愛季勢、津軽に侵攻し、大浦為信と激戦を展開



1582 天正10年

南部晴政、三戸城で卒す。南部信直を三戸城主に迎える。信直、弟政信を波岡城に入部させ津軽郡代とする



1583 天正11年

安東愛季、浅利勝頼を檜山城に謀殺し、比内郡を併合



1585 天正13年

大浦為信、外浜油川城を攻略。同南部光康の横内城を陥落させる。名久井城主東政勝、南部勢3,000騎を率い、八甲田山を越えて浅瀬石城を攻めるが大敗



1586 天正14年

南部信直、斯波滴石城を攻略す。滴石氏(斯波支族)滅ぶ



1588 天正16年

三戸南部信直、斯波高水寺城を攻略。斯波氏滅亡



1589 天正17年

湊安東通季、安東実季を湊城に急襲、湊合戦勃発。秀吉、南部信直に秋田、津軽討伐を告げる



1590 天正18年

南部信直、小田原に参陣。豊臣秀吉、宇都宮で南部信直に対して南部七郡の本領安堵の朱印状を下す。津軽(大浦)為信、秀吉から領地支配を安堵される。安東実季、秀吉から領地支配を安堵される。小田原北条氏、降伏



1591 天正19年

九戸政実の乱おこる。浅野長政、南部信直に対し、不来方の地に築城を勧奨す(盛岡城)。九戸城落城、南部信直入城し、福岡城を攻める



1592 文禄元年

南部信直、関白秀次から朝鮮出兵を命じられる



1594 文禄3年

南部信直、岩手郡不来方の地を居城に決定す



1597 慶長2年

盛岡築城工事、城下町設営工事が本格的に始まる



1598 慶長3年

南部信直、盛岡城に居住す。同年信直、病気にて死亡



1599 慶長4年

南部信直、二戸郡福岡城で没す。利直、南部27代を継ぎ、盛岡藩主となる



1600 慶長5年

家康の命により、南部信直、兵5,000を率いて出羽山形に出陣す。関ヶ原の合戦、津軽為信出陣



1601 慶長6年

利直の軍、和賀岩崎城を火攻めにし、これを攻略す(和賀氏滅亡)



1602 慶長7年

鹿角白根金山が発見される



江戸時代


1614 慶長19年

利直、大阪冬の陣に出陣



1615 元和元年

大阪夏の陣おこる



1625 寛永元年

三戸旧城下の町民を盛岡に移す



1632 寛永9年

南部利直が江戸桜田邸で逝去す



1633 寛永10年

南部氏10万石の軍役に定まる。この年南部重直、盛岡城を永代藩主の居城と定める








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