岩手の高校再編、守るべきは誰なのか?※岩手二次日報
岩手県が次期高校再編の議論に入っている。県の総合教育会議では、地域に密着した小規模校をどう守るか、あるいは再編すべきかについて、委員からさまざまな意見が飛び交った。いかにも「みんなで考えましょう」的な会議だが、さて、その中身は本質にどこまで踏み込めていたのか。
「市町村と連携を」と言いつつ…責任の押し付け合いか?
委員たちは「小規模校の存続には市町村との連携が必要」と声をそろえるが、それって裏を返せば「県だけでは責任取れない」って話だ。教育ってのは本来、国家が骨太に設計すべきインフラだろう。それを地方に押し付ける構図、まるで昭和の公共事業の責任転嫁とそっくりじゃないか。
岩手の小規模校はたしかに地域の拠点ではある。しかし、それをただ「残すべき」と叫ぶのは短絡的だ。過疎化が進む中で、物理的な学校があれば地域が守られるわけではない。中身がなければ、学校という箱ものは結局、使い道のない負の遺産になる。
公立と私立の「役割分担」って言えば聞こえはいいが…
ある委員は「県立と私立を視野に入れた議論を」と言う。もっともらしい発言だが、裏を読めば、これは「公立を減らして私立に振れ」という圧力にも聞こえる。私立に丸投げすれば、教育格差は加速するだけだ。カネがある家の子は選択肢が増える。ない家は?進学先を失い、流されるまま地元から離れていくしかなくなる。
本気で「子ども本位」を語るなら、教育格差の是正こそが議論の出発点であるべきだ。だが、そんな本音はこの会議では口にされていないようだ。
天下りと“地域の顔役”が学校を食い物にしてきた
そもそも、なぜ無理に学校を残したがるのか。教育ではなく利権が根っこにあるのではないか。小規模校を維持すれば、校長や管理職といったポストが生まれ、地域の“顔役”が安泰になる。教育委員会にも天下り先が確保される。まさに温床だ。公務員組織にありがちな構造で、「地域のため」と言いながら自分たちの椅子を守っているだけに見える。
そして見落としてはならないのが、外国人留学生の受け入れで学校を延命させるパターン。人口が減るからといって、治安も文化も教育の質も犠牲にしていい理由にはならない。そんな延命措置は、もはや“教育”ではない。
売国政権が仕組んだ制度のツケを地方が払わされている
日本の文教政策そのものが、すでに国民目線から逸脱して久しい。地方を切り捨て、グローバル化の美名のもとで外国人ばかり優遇する制度にしてきたのは国政の失敗である。国家としての責任感がゼロ。メディアは政府の広報機関と化し、まともな批判もできない。教育も福祉も移民も、全部が“利権化”されて、国民の生活は二の次。
この構造を維持し続ける限り、いくら地域が声を上げても焼け石に水だ。国民が真に立ち上がらなければ、やがて「流血の対価」を払わされる時が来るだろう。学校の統廃合なんてのは、実はその入口に過ぎない。
まとめるとこうだ。
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学校を残すことが目的化している時点で、議論はズレている。
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地域や教育を守ると言いながら、裏でポストや利権がうごめいている。
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教育を根本から壊してきたのは、日本政府の売国的政策である。
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岩手県のこの議論は、国政の不作為の尻ぬぐいを地方に押しつける縮図にすぎない。
丁寧な議論もいいが、そろそろ国民は“本音”で反撃すべき時にきている。教育という聖域が、ここまで腐ってしまっているのだから。